2022.06.28
もういやだ。こんな生活。
昨日もまた気絶した。気絶させられた。まるで海の引き際が遠ざかるように、波が遠く寄せるように、私の意識もまた奥へと引かれて消えてしまった。私にはこのルーティーンがあるというのに。読んでおきたい本があるというのに。私は気絶させられたのだ。労働に。
もういやだ。いったいこんな生活の、こんな日々の、何が尊いというのか。私には分からない。なぜ大衆は義憤に駆られることもないのか、それすら。
●労働の本質
もう三ヶ月経った。入獄から三ヶ月である。この間、私は人間として成長を果たしたであろうか。理性は磨かれ、知性は磨かれ、果てに心は豊穣を得たであろうか。
否。何もない。何も得ていない。むしろ失ってすらいる。いいや、失った、何もかも。いま私の手元には何も残っていない。憎悪と絶望を除いて、何も残されていない。夢も希望も感嘆も星も緑も花火も、もう何もかも残っていない。すべて奪い取られたのだ。労働に。
労働は私の予想していたより、ずっと愚かであった。労働は決して人間を成長させない。労働はただ、人間を削り取っていくに過ぎない。何も与えず、すべてを吸い取り、絞りカスとして、賃金を置いていく。
これが労働である。労働ほど人間を人間から遠ざける者は居ない。労働は数多の罠によって、人間から人間たる所以を取り除くのだ。そして私は労働の罠に、他の者と同様、取り込まれた。
●死んで生き永らえるなら
このまま私は死ぬというのか。私はこのまま徐々に腐っていって、そして崩れていくというのか。さながら魂の失われた肉体のように。この腐敗を、受け入れろとでも言うのか。
断じて受け入れることなど出来ない。誰も私に労働を受け入れさせることなど出来ない。私はまだ、人間で居たい。私はまだ終わっていない。私はまだ死んではならない。私はまだ、生きていたい。
私は幸いである。労働が苛烈に私を虐げようとも、労働の虜が私を異質なる者として捉えようとも、私の自我は耐えた。この三ヶ月間、摩耗はありつつ、耐えたのだ。私は私のまま、この世界に在り続けた。
それでも労働が、私に対して「私を殺せ」と命ずるのなら。このまま死んで生き永らえろ、と言うのなら。それを、誰もかれもご希望であるのなら。
私はそのご希望に、大いなる敬意を以て逆らおう。