まどどブログ

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2022.06.30 機械の夢の幸いについて

2022.06.30

 

 また。

 また気絶。

 どうやら労働は、私の魂をも配下に組みたいようだ。夜は、悪しき労働から逃れ、自我の息の根を取り戻すささやかなレジスタンスの根城は、焼かれつつある。

 であれば、根城を移す他にあるまい。これを朝に。朝であれば、気絶することは少ない。本来ならば労働からのかりそめの解放を祝うものであったはずだが、仕方あるまい。夜に置いて、このように散っていくのはもう御免だ。

 

夢亡き人間は機械か?

 夢の喪失は不幸の皇帝であると述べた。夢無くして、亡くして、と表記するのが適切であろうか、生き永らえること。これは飢えよりも死よりも、何より不幸を極めた者である、と。では、なぜ?

 夢を亡くした人間は機械だから。そして機会は不幸だから。

 いいえ。あくまで推察ではあるが、機械ではないと考える。現代において、賃金の対価として魂を差し出すシステムは、それも極めて機能的に、動いている。このシステムを用いるならば、夢無くして生きることは可能である。魂を差し出すだけで済むのだから。

多くの人間はこのシステムを用いて、魂の対価に得た賃金で「生命維持活動」を実施している。趣味もまたその一つである。彼らは自立した(はずの)意思の指導下で、その「活動」を全うしている。そして「活動」の内容は千差万別である。故に、彼らの意思も相応に異なると認識するのが妥当であり、彼らは機械ではないと考えられる。

 それに、機械が不幸であるとは限らない。むしろ幸いではないか。何も感じず、何も考えず、ただ漠然と眼前のことに熱中し、やがて生命を終えられるのであれば。

 

 では、何か?

 分からない。私にも分からないのだ。

 ただ、不幸である、という確信を掴んでいる。本能が私に教えた。夢を亡くしたまま生き永らえることは、不幸であるはずだ。何らかの理由は必ずどこかに眠っているはずだ。私がその寝床にまで、行き着いていないだけで。

 もう少し、考えたい。逃避の前に結論を出さねばならない。

 

●追って

 ああそうか。簡単だったじゃないか。

 夢は希望だから。希望は世界を彩るすべてであり、これを亡くして生きることは世界の装いを失うから。

 そして、暗闇も光もすべて失われた、無に閉じ込められることとなるから。

 たったこれだけだったのだ。