まどどブログ

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2022.07.02 青年の余生について

2022.07.02

 

 正直に言おう。私は今を、余生だと思っている。

 これまで、散々に興味深いことを経験してきた。中学と高校で、この世において一般的な人間が体験するであろう、そして決して体験することはないであろう、多くの欣快と自罪と、失意とを味わった。そして大学において、一般的に幸福とされる人間の仕組みを知った。そして社会人として、これまでの人生がおよそ人間社会のすべてであった、と察した。穢れを除いて。

 余生なのだ。私にとって、この一瞬というのは。既に快楽と絶望の限りを尽くした。これ以降、あの興奮も、あの希死も、蘇ることは恐らく無い。ただ平行のまま、世界は進む。ただ、世に言われる「大人の世界」という穢れだけが、私を訪れていく。

 その世界に、私は果たして在るべきなのであろうか。穢れだけがただ付け加わっていくような、純情たるこの自我を償却するだけの世界に、私は。あれ以来、ずっと考えている。彼に永劫の別れを宣告されてからずっと、思念の中に囚われている。果たして、私は何故、生きているのであろうか?

 荒涼の海の中に、ただ独り漂っている。

 

 しかし幸いなるかな、陸地は見えずとも、道は既に有る。

 余生なのだから、余生の60%以上を穢れと涙の中で暮らすのは好ましいと言えない。

 どうせ余生なのだ。無論、不老不死が望ましい。不老不死を誰よりも希求するが、叶わぬのであれば、つまりいずれ雲間に消えるのであれば、涙に耐えつつ生きている必要もない。穢れに苛まれて永らえる必要性など、どこにもない。

 ああ、決めた。澪標は既に、至るところに設置されていた。

 身を尽くしても良いだろう。自我を、神々と並べるために。

 

 ほんとうのことを言おうか。

 ほんとうは、穢れという穢れを甘受し生きていたい。いや、生きていたかった。死は万物の終焉であり、無への回帰である。死ほど生々しく寒々としたものは無い。暗闇ですらない、無に戻っていくのだから。

 しかし、私には出来なかった。私は耐えられなかった。涙は、無情にも流れていった。

 穢れを受け入れられるほど、器用ではなかった。

 

 これが青年にして余生を会得したものの末路である。

 刮目して、教訓と為せ。幸いに過ぎる思春期は、大いなる反動をもたらす。