2022.07.03
今日はこのブログを十分で書き上げる。
時間が無いのだ。優雅に休暇を——偽りの休日を——過ごしていたら、もうこんな時間となってしまった。この休日は、苦しみに対して目を失うよう設定された光源であるというのに、私はそれを堂々と受け入れてしまった。あまつさえ、このあとに予定すら入っている。
愚かな者は私だ。愚かという場面で、私の右に出るものは居ない。私こそ愚鈍の子。愚蒙に愛され愚劣に満ちた、愚者である。
そんなことはどうでもいい。あと八分。テーマは何か。実は何も決めていない。ただ十分で書き上げる必要に駆られて、筆を、電脳文字を踊らせている。では何にしようか。
スマート・フォンに眠っている電脳帳を漁る。電脳の紙面を幾度もめくって、テーマを探す。私はテーマを大量にストックしている。にくき労働によって、日々の思考がままならないためだ。
ああ、決めた。これにしよう。あと六分。
定められていたかのように失敗してしまった。以下は、帰宅後に修正したものである。
- おとなおままごと
労働とはおままごとである。否定的に述べているのではない。客観的な観察の結果、労働がおままごとである、という結論に辿り着いた。
そもそも、おままごととは何か。私は、本来実行されている何かの行為——例えば家事や買い物——を真似ることであると考える。この意味で、労働も同様である。
労働のマナー。例えば名刺交換。左手で渡すとか、「頂戴いたします」と鳴くであるとか、そういうもの。私はあれについて、由来を調査した。結果として、「なぜマナーに従うべきか」に関する解説はあっても、マナーの由縁に関する説明はどこにも見当たらなかった。少なくとも、速やかに発見される、定説として馴染んでいるものとして、マナーの歴史は存在しなかった。
では、これは新興のものであり、なにかの模倣であると考えるのが妥当であろう。ではこの場合、何を模倣しているものか。私は典礼、根本に、神事と考える。
いかなる神事を取り上げても、簡素なものは見当たらない。神事には必ず数多の作法が定められている。それはそのはずで、神というなんだかよくわからない畏れ多い存在には、それなりに畏敬を示す手段が必要である。その一つとして、作法が用いられているに過ぎない。そして神事の歴史は長い。
労働はそれを模倣した。神も居ないのに、あたかも神を持つかのような多彩な作法を用意した。そして、それを守らぬものは、神もいないのに畏れ知らずの愚か者と同義となった。あたかも、神事において失敗を重ねた右大臣のように。
業務上発生する交渉の数々。それもまた模倣である。政治の。利害の対立と調整は遥か彼方、ローマ帝国の時代より古く、恐らくは殷の時代よりさらに古く、存在していた。特に近代ともなれば顕著である。各国の利害対立が鮮明となり、交渉によって妥結点を探り、条約によって利害調整を完結させる。古来より人間によって育まれ、世界を動かしてきた利害調整のノウハウを、なんら世に影響をもたらさない些細なことに落とし込んだ。つまり模倣である。
労働とはすべておままごとである。おとなおままごと。古来より人間の営んできた生活のそのすべてを、極めて矮小なものに移し替え、楽しげに活動する。子供の頃に憧れた家事・育児を、単に世界そのものへとすげ替えたに過ぎない。
そして私はおとなおままごとの仲間外れとなった。