2022.07.05
繰り返される機械仕掛けの日々はコーヒーが苦手なようだ。
コーヒーによって眠気は吹き飛ばされる。眠気が去れば、どんな時間であろうとも自我のための時間が取り返される。多少睡眠時間は削られるかもしれないが、それは些末な問題である。自我が崩壊するよりは、過労で倒れてしまったほうがずっと好ましい。
そもそも、過労で倒れることができれば、労働も堂々たる姿勢で排除できる。この、生まざる者に価値の無い社会において、過労は労働から逃れるための数少ない有効な手立てだ。
- 目的
つい先日、友人から「目的を定めよ」との訓戒を頂いた。彼はあくまで労働の文脈で——例えば家族のため、趣味のため、というように——述べていたわけであるが、私はある種の薫陶を受けたことになる。確かに、私に人生の目的は乏しい。正確に言えば、恐らく各事項において一定の価値観を有しているものの、一貫して具体化した経験はない。ここで「生きる目的」を検討し明示することは、なるほど今後において有効な手段であると考えたわけだ。
そこで様々考えて、現状で二つ。少し曖昧だが。
一つ。常に新鮮な情報を目撃すること。平たくいえば、常にワクワクしようね、ということになる。未知の世界。新規性に溢れた世界。これを常に見つめていたい。
一つ、世界の一部と自らを為さしむこと。即ち、世界を注意深く観察し、さらに自我がどのようなものか世界から教えてもらうことで、世界の一部として自らを置く。ただ世界を消費するのではなく、時には語り部となり、時には聞き手となることで、世界との間にある壁を取り崩す。
言い換えれば、私の中に住まうオオカミを再び元気にする。このことである。
コーヒーとは無情なもので、効用の切れ目も非常に明瞭である。
今晩中に、なんとしても辞世を完成させたいものだが、どうだろうか。
さようなら。