まどどブログ

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2022.07.11 「選挙は香典」という事実について

2022.07.11

 

 昨日、第二十六回参議院議員通常選挙が幕を閉じた。

 結果は自由民主党の圧勝。改選過半数を、岸田文雄は成し遂げた。

 そして此度の選挙において無視できないのは、当然彼の銃殺である。あるメディアの調査では、13%の人が彼の死によって投票先を変えたという。これを多いと捉えるか少ないと捉えるか。それは価値観の知るところであろうが、私には決して無視できない数字であると思われる。そもそも残った87%の者が本当に変えていないか否か。それすらも疑わしい。

 案の定、メディアは彼の死を大いなる影響として捉えている。その真偽はさておき、私はこれについて、一つ述べておきたいことがある。

 

  • 選挙は香典じゃない

 選挙は香典じゃない。

 彼の死以降、多く言われた言葉である。確かに彼の銃殺という惨劇は痛ましいが、それと選挙とは何ら関係ない。選挙とは、政策の真贋を見極める機会であり、決して追悼の場ではない。故に、かの惨劇と切り離して、選挙を考えてほしい。

 私も強く、これに同意する。選挙は政策審議の場であり、葬儀会場ではない。故に、極めて合理的に物事を捉えるべきである。確かに痛ましい事件であった。が、選挙に持ち込むべきではない。民主主義は、合理的な判断によって決定されるべきなのだから。

 

 では、現実を見ようか。理想主義者のろくでなし共には、我々リアリストの啓蒙が求められている時代のようだから。

 皮肉なことに、そして美しいことに、選挙とは香典である。

 

  • 選挙は香典

 如何にして、選挙は香典と移ろっていくか。今回は、その体験をしてみたいと思う。

 彼が亡くなったとき、我々は自動的に、彼の死を悼むようになる。この機能は人間の、いや人間よりはるか大きく、群れを作る動物に見られる共通の本能である。同胞がこの世から去ることは、誰でも悲しい。悲しいと思わない人間など、僅かなものである。本能の要請なのだから。まして、印象の強い人間を失った場合の喪失感というのは、計り知れない。嘆かわしい気持ちも湧いてくるであろうし、何かをしてやりたいとも強く思うであろう。この「弔い」という感情が噴出するのは、人間として文字通り自然なものでしかない。

 では、この「弔い」という感情の解消には何が必要か。私はこれを、故人の死に対する直接的な関与であると考える。そもそも「弔い」は群れの同胞が消え去ることに対する憐憫の情から来ており、感情としては極めて身近なものである。さらに、「弔う」の語源は「訪ふ」である。つまり尋ねる、ないし訪ねることから来ており、非常に近しい関わりが見られる。これらのことから、「弔い」とは故人と自らとを非常に近しい存在に置き、極めて近接かつ直接的な行為を実施することによって解消が可能である、と考えられる。

 これが例えば近隣の老人であれば、「弔い」の解消は容易い。遺族に直接何か施しを加えることができるのだから。葬儀の手伝いを担うこともできるし、金品を一部負担するという手もあるし、あるいは遺族のケアに従事することも可能である。身近な存在であれば直接的な手段は増えるのであるから、「弔い」という欲求を解消する手立てはいくらでもある。その最たるものは、香典であろうか。

 しかし、相手が政治家の場合、どうやって弔えば良いと言うのだろう。言うまでもなく、直接施しを加えるのは不可能である。葬儀に向かったとしても、遠くから故人を眺めるか、仮に近付けたとしても、何か小綺麗に仕立て上げられた肉体が横たわっているだけ。これを果たして「弔い」と呼べるであろうか。博物館に展示されている物品を興味深く観察するのと、何ら変わらない泰然とした感情が、恐らく流れることであろう。自然、遺族などと関われるはずもない。政治家そのものに対して「弔い」を解消することは、出来ない。

 ここで人は考える。無意識の中で、人は考える。「弔い」を解消するには、即ち死に対して直接的に関与し支援するには、どのようにするべきか? 彼の死を消化するためには、私はどうすれば良いのか? 私は、凶弾に倒れた彼に、近しく思われる彼に何が出来るのか?

 人は思い出す。政治家が常々訴えていること。我々に直接、そして近しい場面で、訴えていること。たった一つのこと。

「私たちに票を!」

 そして人は票を投じる。票を投じ、彼の死に対して直接的な関与を為す。彼の最大の望みを——遺志を——叶える。これによって、彼と私との間には近接な関係が発生し、結果として「弔い」の解消へと繋がる。

 こうして選挙は香典となる。

 故に「選挙は香典」なのだ。

 

  • 民主主義のアンチ・人間化

 民主主義においてこの着想は極めて危険である。選挙のたびに誰かを殺して仕舞えば投票結果は簡単に歪む。安定していた民主主義と倫理観、そして平和は文字通り銃声という音を立てて崩れ去り、我々は保元以来の混沌へと回帰していく。極論ではあるものの、この可能性すら否定できない。本来ならば「選挙は香典じゃない」ほうが望ましいし、かくあるべきなのだ。

 が、私は思う。選挙を香典と為さしむのは、もはや人間の本能である。仮にそれが危険であるのなら、もう民主主義を、政治を人間の手から離したほうがいい。民主主義を人間的システムから解放したほうがいい。

 だってそうだろう。政治家の死を選挙と分離する。これが果たして人間的な行動と言えようか。我々が政治家と最も近しくなるのは選挙のときである。普段は国会の中で国政に向かう彼らの顔が、選挙のときは我々に向く。普段は困難な舵取りを強いられている彼らが、選挙のときは舵を背に、我々に語らってくれる。つまり選挙こそ、我々は政治家を隣人に——とは誇張表現であるが——感じられる、唯一の機会なのだ。

 その政治家が亡くなった。しかも、多かれ少なかれ皆の心の中に座っていた彼が亡くなった。選挙にその感情を移そうというのは、人間としてもはや相応しい。これを抑えつけて、ただ国家と自己の利益最大化だけを見つめて投票せよ。おお、なんと近代的な発想だろう。人間性の侮辱ですらある。自我を疎外せよ、と主張しているに等しい。

 故に理想主義なのだ。理論は理想であって、現実ではない。仮に人間性の介在が危険であるのならば——疑う余地なく危険であるが——いずれ民主主義は崩れ去る。かつてアテネが堕落したように、我々の民主主義もまた堕落する。誇張ではない。総理大臣経験者が鉄道駅にて凶弾に倒れる時代なのだから。いずれまた、かつての斎藤内大臣のように、誰かが殺される。そしてまた、民主主義は安定を失う。

 私は言いたい。選挙は香典である。そして、香典とみなすことは何ら責められるべきことではない。むしろ讃えられるべきことであると思う。故人を弔う、その感情を強く持つ心優しき者にしか出来ない。そのような善人は高められるべきである。決して嫉みに擦り潰されるべきではない。

 そして同時に、心優しき者によって、民主主義は徐々に崩壊への一途を辿る。これは人間に民主主義が、そして政治が委ねられているからに他ならない。我が国より民主主義の失われたとき、何が待ち構えているか。私はあまり、幸福な風を感じられない。

 だから急ぐべきなのだ。人間によらない、公明正大な政治システムの構築を。人間という不確定かつ非合理の要素を排除できる、整った機構の建設を。政の禅譲を。

 人間はもう、人間であることに専念すべきだ。機械を下に見ること無く、対等な関係として分業を試みるべきである。人間に出来て機械に出来ないこと。機械に出来て人間に出来ないこと。お互い、得意分野はそれぞれ異なるのだから。

 

 ちなみにそれがどのようなものなのか、私は知らない。

 

  • 補記

 政治家の魂とは何か。それは票である。政治を志す者たちの試練。それは、票を獲得することである。多く得票し当選を認められることによって初めて、「議員」という地位を獲得し、政治に参画することを許される。彼らは票がなければ、ただの虚ろな肉体と何ら変わりない。彼らが初めて「政治家」としての魂を得るのは、票を得たときなのだ。即ち、票は彼らの魂であり、票を多く集めることが彼らの魂を富ませる。言い換えれば、我々の票が、彼の魂なのだ。

 つまり、此度で票を彼の愛した組織に投じることは、彼の魂を富ませることにも繋がる。彼を慕った者がそれほど居た。彼の望みを是とするものがそれほどいた。その証左となるのだから。

 きっと、彼も喜んでいるのではないだろうか。死後の世界があるとするのであれば。