まどどブログ

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2022.07.12 労働の救いについて

2022.07.12

 

 今日はそういう気分でなさそうだ。

 いつになったらそういう気分になるとでもいうのだろうか。

 とりあえず、スマートフォンを禁じるべきであるらしい。

 

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 自明の理として、人間は働くべきではない。自我を失い、魂を失い、世界を失うことは、決して受容されるべきことでない。

 しかし皮肉なことに、労働は我々人間を救っているという側面すら併せ持つ。労働は、人間の思考を外部に向けさせることによって、内部、即ち自我に対する疑念から我々の目を逸してくれるのだ。

 一般に。労働のタスクは非常に単純明快である。ここで言う「単純明快」とは、タスクの難易度を表さない。事前に視覚化が為されており、現状で何がどのようにタスクとして残っているのか考えるだけで良い。〇〇さんに連絡。上司にお伺い。会議のための資料作成。外部とのやり取り。残った作業の処理。このように、自らで考えるまでもなくタスクが外部存在によってお膳立てされていること。このことが「単純明快」なのだ。

 「単純明快」なタスクの上で、我々は難易度や優先順位を考える。どのタスクが他のタスクをどう繋がっているか。何が優先で、何が急ぎで、また何が後回しでも良いのか。何が丁寧に取り組まなければならなくて、何が粗雑に扱ってもよいのか。外部から与えられたタスクに注意を向けて、取捨選択する。こうして、労働の中では外部のものに対して一切の注意を向ける。内部、即ち自我に対する問いかけは、発生しない。せいぜいあったとして、「自らのキャリアはこのままで良いのか」というものであって、あくまで自我の存在意義は自明のものとして扱う。労働によって、我々は自我との対話から解放される。

 では、人間から労働が取り払われたとき、どのようになるか。人間の思考は留まることを知らない。これまで外部に向けられていた目は、当然内部にも向けられることとなる。そして内部に関する疑念は、外的存在によるタスクと異なり、何もない。仮に労働が「日中、平野の舗装された道を選択し早足で進む行為」であるとすれば、内部への問いは「闇の中、奥深い樹海の中を標もなく急ぎ駆け回る行為」であろう。何から考え始めればよいか。何をすべきか。何が正しいのか。何が優れているのか。何を求められているのか。何を欲しているのか。どうしたいのか。何一つとして見えていない。樹海の地図など何一つとして無い。ただ闇の中を駆け巡り、木々や岩に対峙し、自らの手によって地図を作り上げる他に方法など無い。

 そして恐ろしいことに、この暗中模索では遭難する者も現れる。死者すら在る。川に落ちて死ぬものもあろう。また、樹海の中に飢えてしまうものも。このような者は、現実世界において精神異常者とみなされる。しかし本来、彼らは遭難者なのである。

 労働の無い時代、恐らくこのような者が多く現れた。故に労働は人間を救われた。皆が皆、危険な冒険を経ずとも良いように。

 私は彼をあまりに貶めていた。彼は彼なりに、想いを持ち合わせていたのであった。

 

 無論、果敢な冒険者にとって、労働は災いに他ならない。労働の与える、内部からの逃避。言い換えれば、自我の殺害に他ならない。多くの者の救いであるが、ある者にとっては非情な知らせでしかない。

 ただし内部への疑念が極めて危険なものであることは、依然変化しない。では、これを少しでも安全なものとするには、どのような要素が必要となるのか。

 

 少し、考えたい。