まどどブログ

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2022.07.15 家畜の告白について

2022.07.15

 

 最近はもはや自我が壊れてしまっているので、ただYouTubeと『大鏡』を徘徊し、朝鮮語を習得する機械と成り果てている。

 ところでYouTubeを徘徊している不審者として生活しているうち、何を思っているのであろうか、この私に就職活動の動画が回ってきた。嗚呼。就職活動。この言葉を耳に入れるだけで私の身体は殺意に満たされるわけである。

 多くの者は、過ぎ去って数ヶ月も経てば、かの悪しきイヴェントを「つらかった思い出」として美化して語り継ぐらしい。己の就活論を振りかざし、後輩を惑わさんと試みる者すら在る。恥を知りなさいよ。同じ「人間」を名乗らないでほしい。清き彼らを自らと同じところまで貶める狼藉者である。いや、狼が高められている現状において、狼藉という言葉すら忌むべきである。塵芥として戸籍に登録されるのが良い。同一の人間として扱われてはならない。

 私とて就職活動を経験した者の一人である。そして、何ヶ月経とうとも、一年経とうとも、そして恐らく数十年経とうとも、かの陵辱を忘れることは出来ない。私にとって就職活動とは、まるで性的暴行を受けたかの如き屈辱であった。

 就職活動の最大の意義は何か。それは、自らは生来家畜であった、と個々に認識させることである。お前は尊い人間ではなくただ消費される資源に過ぎない、と烙印を押すことである。

 

 思いを巡らせるたび、絶望が私の血管を駆け巡って末端にまで行き渡り、文の歩みを止めてしまう。

 私は家畜であった。子供時代の幸いで無責任な生活はすべて、今日この日のためにあったのだ。社会の一要素として魂を差し出し、自我を殺して、涙に耐えながら仕事という拷問を自ら進んで受け入れる今日のために。

 家畜ではないか。牛が牧場にて、訳も分からず無責任で気ままな日々を出荷されるその日まで過ごしているように、私も社会人として出荷される日まで、幸い絶えない箱庭にて飼われていたのであった。

 ああ、愚かしい。この事実に、なぜもっと早く気づかなかったのか。孤高の牛として生きるべく、活動も出来たであろうに。愚かしい私の才を怨んでも恨みきれない。

 この場面まで進んでしまっては、もう。思念を渡らせれば渡らせるほど、私の中にはたった一つの道しか見えていない。いや、道と呼べる代物であるかも、定かではない。道と呼ばないのやもしれぬ。このようなものは。

 私の先に続く道は、近く途切れる。

 

 自らの幕を閉じる気などない。ただし、自然の要請には敬意を払わなければならない。