2022.07.16
自然の音に心委ねつつ、脇息に凭れ、灯りを寄せて大鏡を読む。これほどの幸いがあろうか。極楽にも届きそうなほどである。私はもしかして、いま極楽にでも居るのであろうか。
いや。忘れてはならない。私がいま居るこの場所は、地獄である。
- 古典:死後の文学
古典を読んでいると、どうにも死が近しいもののように感じられてしまう。
例えば、現状が極めて耐え難いものであるとする。私の場合は労働である。労働は心を殺す。ありきたりな表現を用いれば、何のために生きているのか分からない。希望が無い。希望の失われた人生ほど、耐え難いものはない。
このとき、どうにも死は逃避の手法というか、魂という観点で考えたときに次住まう場所としか思われない。たとえここで死を選んだとしても、極楽か地獄か、自我は保存されたままいずれかに送られ、また異なる場所で活動を始める。このように思われて仕方がない。
それほど古典の中で死は身近な存在なのだ。誰もかも容易に極楽浄土や天国、ないし地獄など、死後の世界を現実のものとして認識している。仮に亡くなったとしても、日本では夢でわりあい早く再会を果たすし、主の庇護下ではその後がある程度予告されている。死に対して絶望を抱いていない。死によって自我が消え去るなど、思想としてすら存在しない。浮世の行動によって、死後の道は選択できる。そのように信じられている。信じられてすらいない。彼らには死後が見えている。ごくありきたりな世界として。
古典ばかり読んでいると、この認識が自らの中に浸透する。死後の否定された世界で、死に強い救いを見てしまう。死してなお自我は在る。このような幻想を抱き、現世からの逃避がより現実的な選択肢として浮上してしまう。
死は自我の消滅に他ならないのに、そのような夢を抱いてしまう。希望なき者の、最後の夢を。
このことから言えることは一つ。
希死念慮の強い者は、古典を読むべきではない。
私のようになってしまう。
●補記
上で文を止めておくのが美しいのだが、言霊に恐れるのも古典を愛する者の宿命である。
死を受け入れることなど有り得ない。私は不老不死を望む。夢は念じ続けていればいずれ叶うのだ。