まどどブログ

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2022.07.17 労働による絶望の発症と死について

2022.07.17

 

 眠い。

 久々に「安息の睡魔」を感じている。これもまた、どれほどの幸いであろうか。

 気絶する必要もない。恐るべき朝も来ない。ただ安らかに睡眠を求める。誰に縛られることもなく安らぎを享受する。そんな一時。

 つい数ヶ月前まで、この時は水であった。蛇口をひねるかのように、いつでも目を閉じることが出来た。乾きを満たすかのように、自我の要請によって睡眠を得られた。

 水がこんなにも貴重なものだったとは、思いもしなかった。

 

 ああ。どうすれば、労働から逃れられるのであろうか。

 息の苦しみから逃れて生きる術はあるのであろうか。

 無いのであれば、合理の下で選ばれるべき道はただ一つに限られる。

 

 絶望の果てに人間は滅ぶという。成程、それは確からしい。

 もはや何をする気にもならない。あれほど焦がれ自己を見出さんとした創作ですら、もう見る気にすらならない。あれほど気楽に気丈に作っていた俳句も短歌も和歌も、もう何も起こせない。書くべき題材はこの世に散らばっているというのに、もうかき集める気すら起こらない。身体も思考も動かない。ただ、時間を刹那の中で過ごす。それで、せいいっぱいなのだ。

 何故か。どうせ無に帰す。ここで何をしようとも、どうせ無に帰す。休日に心を砕いて創作に勤しんだとしても、どうせ平日が訪れる。自我を殺して休日を待つ。感受性も減耗するので、徐々に創作の質も低下していく。そして、休息を与えないことでいずれ自我そのものが疲弊し、壊れていく。

 これが凡人の宿命である。休日に活動すればするほど、自我は傷んでいく。自我が傷めば傷むほど感受性は貶められ、創作の質は低下する。創作の質が低下すればするほど、私の創作意義は失われていく。創作意義は、私の存在意義ですらある。存在意義が失われたなら、人間の自我は容易く崩壊する。

 現状、自我の崩壊は目前に迫っている。何も楽しいと思えない。何に心を動かされることもない。ただ、時が過ぎるのを待つ。自我は去りつつある。このような状況で、一体どうやって人の心を動かせば良いというのか。いったい、どうやって人を楽しませ、悲しませ、勇気を与え、助けられる作品を仕上げられるとでもいうのだろうか。私の心が死んでいるのに、どうやって人の心を映し出せば良いというのか。

 創作とは、単に文字を連ねる作業ではない。創作とは戦争である。自身の持てるものすべてを総動員して、読者と戦うのだ。戦って、読者の心に踏み込んで、読者の心を自らの旗に塗り替えてこそ、創作は大成する。そのためには、自身に豊かなものをもっていなければならない。知恵と知識と理性と感情とを、民草の何百倍も多く備えていなければならない。欠けてはならないのだ。何一つとして、欠けることなど許されない。

 まして心の喪失など、あってはならない。創作者にとってまさしく致命的な欠陥とすら言えよう。戦争において補給路を失ったに等しい損失である。作品は供給を絶たれ、枯れてしまう。そして事実、私の作品は枯れている。

 では、どうすべきか?

 もう何もしなければ良い。どうせ何を書いても無意味だ。また平日が訪れ、自我を奪い去っていく。休日に精を出そうとも、見るに堪えない駄作の数々が生み出される。自明のことだ。何をしても、もう無駄だ。何ら未来に期待など出来ない。どうせ大成はしない。このまま、私は自我を切り取って売り払う。であれば、もう何もしないほうが良い。何もせず、苦しみでしかない時間を無心で過ごすほうが良い。抗うことをやめたほうがいい。自我に刺さるナイフが、より奥深くにまで貫通するだけだ。

 これは本能の選択である。痛みを最小限に。苦悩を最小限に。感情を最小限に。希望も喜びも無くして、ただ無心で命を繋ぐ。自己保存の観点で考えれば、これが最も合理的な選択だ。

 

  • 冒頭たるや

 立ち返って考えてみたい。これは果たして、生きていると呼べるのであろうか。

 無論、生きていない。これは死そのものである。感情も心も希望も無い人間は、墓の下に眠る死者と何ら変わりない。何も見ていないし、何も感じていないのだから。死者といったい何が異なると言うのであろうか。

 故に私は求めているのだ。この地獄から逃れる手法を。生を謳歌できる、希望に満ちた日々を。労働から逃れる術を。

 労働から逃れる術が無いのであれば、それはこのまま死するべし、という主張と何ら変わりはないので、合理的な思考の下で死を選ぶ。

 これが冒頭の主旨である。ご理解いただけたであろうか。

 私の愚かな友人たちよ。

 

  • 助けてほしかったのに

 私はその実、労働が視野に入った二年ほど前から、ずっとこのことを危惧してきた。そして、ずっと助けてほしかった。誰かに、私の苦悩を理解してほしかった。誰かに、自我の裂かれる苦しみを肩代わりしてほしかった。

 しかしそのような人は訪れなかった。友人にも家族にも無碍にされた。「働きたくないのは甘えだ」「働かなければ生きていないのだから仕方ない」と、至って平凡な返答とともに嘲られた。誰も、私を助けてくれなかった。せめて苦しみを分かち合ってくれたなら、それだけでよかったのに。

 そして危惧の通り、労働によって私は心を病んだ。いずれ自我も壊れてしまうだろう。自我が壊れて仕舞えば、私は私としてこの世から消えてしまう。果てに、私を留めていた物体がとりとめもない音を放つ装置と成る。単なる肉が「狂ってしまった私」として、家族と友人とを痛め続ける。

 そのときになって、恐らく彼らは嘆くだろう。「なぜこのようなことになったのか」「こんな人ではなかったのに」と。

 ああ、可笑しい。私の悲鳴をずっと無視してきた結果だというのに。

 

 ところで、無念の中でこの世を去ったとき、私はたった一つのことをすると決めている。

 何度でも言うように私に命を断つ選択は無いが、現状ではどうしてもこれが最も合理的な手段となっている。