2022.07.20
いずれ死と生にフォーカスして述べようと考えている。もしかしたらプライベートに関する事柄は除くこととなるかもしれない。故に、今書けるものは書いておかなければならない。
- 一生寝ていたいのだけれど
私は創作などしたくない。本当だ。
元来、私は創造する者でなかった。確かに幼い頃は自らの手で図鑑を作成したこともあったし、何度か旅行記や俳句にて「優秀」と評されたこともあった。だがその程度である。絵など言うまでもない。私には、そもそも何かを表現しようという志がなかった。
そして今も。今も、叶うことなら創作から離れてしまいたい。小説も絵も、本当は一切書き記したいと思わない。この記事とて、途絶えて良いものならば今すぐにでも放棄してしまいたいと思っている。そもそも創作を愉悦に思う人種でもないし、何より、私の幸いは無気力にある。何もしない。何も考えない。何も感じないで、ただ布団の上で一日を過ごす。これこそが何よりも幸福に思われる。その意味では、どんな活動も労力を伴う時点で、ほんとうの幸いからはかけ離れている。創作も同様に。
それでも私は書いている。何故か?
私には、もうこの他に生きる術が無いから。
記事を遡ればお分かりいただけるように、ありきたりな幸せはもう望めない。普通にサラリーマンとして生きて、いい仕事をして、たくさんお金をもらって、守るべき家族を持って、家族と趣味のことだけを見つめて生きる。こんな、ありきたりで、ありふれていて、温かい幸せ。私に訪れることはない。この幸せを享受するのには、あまりに歪められてしまった。
歪んだ者の末路は二つ。逃避と喧伝。自らが普通に生きられないという事実を拒絶し、現実から逃避する。そして自らの悲嘆を書き殴り、私が如何にして悲劇のヒロインであるか、世に知らしめる。生きる意義として有力な候補は、もうこの二つに限られてしまっているのだ。
その手段として、創作はあまりに正しい。
- 眠れないのなら、牙を向けよう
私が創作に囚われた理由は、もう一つ。
憎悪である。私の幸いを阻害する社会そのものに対する憎悪。
私はただ眠っていたいだけ。誰を悲しませるわけでもない。誰を傷つけるわけでもない。誰も、私の手で痛めつけられたりしない。ただ、人的資源として活動しないことの他に、人々に対して何ら害をもたらすものではない。少なくとも、気ままに無辜の民を殺戮する施政者、他者を貶めることだけに勤しむ経営者、心優しき者を搾取する神の僭称者に比べれば、よほど善たる存在のはずである。
それなのに、社会は私を受け入れない。前に挙げた三者よりも遥かに劣る畜生と見なされる。そして社会の価値観に従う家族や友人から、哀れみと嘲りのこもった目と声で呼び交わされる。私は「働かざる者」として、社会において蔑まれ、弾圧される。
そして社会は私の論理を見ない。議論を避ける。肯定もせず否定もせず、矛盾も誤謬も指摘すること無く、ただ押し付ける。社会の価値観。「働く者は何をしようとも尊い」という価値観。例え人を痛め続けようとも、働いている限り尊重されるべきであるとする価値観。人間はモノである、という認識を。
ここに、私の憎悪は芽生えた。私はモノでないのだから。私をモノとして見る、即ち私の人間性を否定する社会に牙を向けるのは、オオカミの末裔として至極当然の行動である。
- 末路
創作は苦しい。どのように書こうとも自らの求めるクオリティとは遠く離れてしまう。日によって品質はすべて異なる。そして、仮に優れたものを製造したとして、それが世間に評価されるかどうかは分からない。闇に包まれし森を駆け巡る。創作とは、そのようなものだ。飢えて死ぬかも分からない。それは誰にも分からない。
ああ、サラリーマンとして理不尽を甘受しつつ生きていられたならば、どんなに幸せだっただろうか。そのように生まれなかったことが、何より悔やまれる。