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2022.07.21 オフィスの狭さについて

2022.07.21

 

 オフィスは狭い。どのように敷地を多く確保しているオフィスであろうとも、どのように広々としたオフィスであろうとも、例えApple Parkであろうとも、オフィスは例外なく狭い。窓の広く、景色が見渡せ、そして光りが多く採られていようとも、オフィスは狭いのだ。

 何故か。オフィスは心を閉じ込める装置であるから。

 

 労働において、我々は何かに対して集中して取り組むことが求められる。例えばホワイトカラーであればパソコンの画面に集中して業務を処理することが求められるし、工場労働者であれば眼前のラインに流れる製品に長時間集中することが求められる。屋外作業者でも無ければ、オフィス——即ち作業場——の中で、自身の担当に専念することが求められる。

 これが何をもたらすか。視野狭窄である。視野と意識は極度に狭苦しいものとなる。パソコンや眼前のライン。自己の意識はこの、極度に狭い範囲に集中する。

 この結果として、視野を広く持つ、この感覚が業務中は完全に失われる。例えば御手洗いに立ったとして、窓から遠く景色を眺めたとしよう。高層ビルのオフィスに勤務しており、窓も広い。街を見下ろし、また空も高く見える場所である。普段であれば、即ち休暇の最中であれば、その景色は悠然たるものとして感じられることであろう。空に目を移せば、広々とした空の中で雲はゆったりと流れ、また飛行機が空を横切る。地面に目を移せば、細々とした車が行き交って、道路が果てまで遠く続いていて、建物も面として顔を覗かせる。一方で遠くに目を遣れば、町外れの森と山が緑を深く放っている。これらに対して太陽は光を放ち、陰と陽とに世界を分けている。これらが、一瞬にして脳の中に情報として入り、「広々としているなあ」という感想を人に抱かせる。

 しかし、オフィスの中であれば、極端に視野と意識とが狭まっているので、この数多くの情報を一つの光景として処理できない。雲の流れと、飛行機の動きと、車の往来と、建物の集合と、森と、山と、緑と、陰とは、すべて異なる情報として脳に入る。そのため、「雲が速いなあ」「森があるなあ」といった個々の情報は脳に入るものの、それが一つの「広いなあ」という感想には結びつかない。

 つまり、オフィスにおいて、視野と意識とは大きく狭められる。その結果、外界が如何に広くあろうとも——事実として世界は広いのだが——この「広さ」を享受することが出来ない。自己は至って狭い領域の中で意識を完結させることとなる。

 この意味で、オフィスは心を閉じ込める装置である。例えApple Parkであろうとも、外界を見つめ歌を詠むでもないのであれば、その広大な敷地は無価値である。狭さは家によって代替可能なのだから。

 

  • 仮説:近代の職業に限られるもの?

 なお、ホワイトカラー然り、工場労働者然り、この傾向は特に近代以降に発生した職業において強く働くと感じられる。根拠は無い。本能的なもの。

 反証を発見したら、また記したい。

 

  • 私事ではありますが

 これもまた、私には激しい試練となった。私はとりわけ、広い世界を愛している。旅行を好むのも、世界の雄大さを堪能することが喜びだから。オフィスの狭さはどうも耐え難い。意識を狭小に閉じ込められるというのは、私の愛する習性ではない。