2022.07.29
労働によってこのルーティーンが一時壊滅的な害を被った。その所為か、このルーティーンの原則である「三十分以内」が崩れつつ在るように思われる。気乗りしないときは十分足らずで仕上げてしまう。が、調子の良いときは六十分以上も費やしてしまう。実に六倍以上。それは困る。貴重な一時間を潰すわけにはいかない。本来ならば、十五分程度が望ましいのだろう。
こうしよう。一分でテーマ決め。二分で構想——凡そ千字程度。そして十五分で書き上げる。このように事前に決定すれば、無駄に時を溶かしてしまうこともなかろう。これはあくまで演習であって、実戦の余力は残すことが求められる。
昭和五十年代の華は誰か。数多考えはあろうが、松任谷由実(荒井由実)と中島みゆき、と答えて疑問を呈する者は居ないのではないだろうか。それほどに、松任谷由実と中島みゆきには共通点が多い。ように思われる。少なくとも生まれ年とデビュー年は近い。
そして「どちらが好きか」と問われたとき完全に世論を二分するのも、彼女たちの他には珍しい。スパイが日本の分断を試みるときには、きのこ・たけのこ論争と並んでこの論争を利用するだろう。それほどに、彼女らの曲調は異なっている。相反していると言っても良い、と勝手に思っている。
さて、私はどちらか。迷わず「松任谷由実」と答える。むしろ、中島みゆきは苦手だ。彼女をこよなく愛する友人から教わった曲を何曲か拝聴したが——私には肌が合わない。文字通り鳥肌の浮かぶような心地がする。
少なくともその数曲の限りで、彼女の曲は直情に過ぎる。
- 作品の主眼:共感
私が作品の中心に据える重要な要素として「共感」が有る。楽曲にせよ小説にせよ、共感こそが作品を自らに親しいものと認識させる重要なファクターである。共感が深ければ深まるほど、まるでその作品が自分の感情の一つであるかのように思えてくる。その作品は決して外部からもたらされたものではなく、自分が思っていることそのもののように思えてくる。そして、その作品は私という存在と溶け合う。その作品は私のものとなっていく。「共感」こそが、作品を作品たらしめるものなのだ。
そして婉曲的であればあるほど、共感の余地は広がる。解釈しなければならないから。
ユーミンの『ひこうき雲』を例に採ろう。あれは死への憧憬を歌うものであるが、最初からそう言っているのではない。非常に婉曲的である。婉曲的な歌詞であればあるほど、我々はその歌詞を解釈しなければならないこととなる。誰のことを言っているのだろう。何のことを言っているのだろう。あのことか。このことか。舞い上がる、とは。その過程で、自身の引き出しを使わざるを得ないことにもなる。自身の経験、困難、絶望、そのようなものを重ね合わせて、自分の想いと照らし合わせる。するといつの間にか、そこには深い共感が生まれる。
これが婉曲の力である。無論、婉曲的であっても最終的にはある程度の方向性を示してやらねば鑑賞者は当惑してしまうので、むやみに婉曲的な表現を用いても詮無きことではある。適切に婉曲を用いることによって、それほどの大きな力が発生すると私は見ている。
- 直情的作品:「私の排除」
そして、直情的なものであれば、共感の余地は狭まる。その作品から、私は排除されてしまうから。直情的とは言い換えれば、作品の中ですべて述べられているという点で完結をも意味する。完結した世界に我々が入り込む場所を見出すのは難しい。故に「私」はその世界から排除されたものとなり、共感は比して浅いものとなってしまう。
例えば、なんだっけか。サイレントマジョリティーみたいなやつ。
以上より、私はユーミン派である。
まあ、私の生育環境が圧倒的にユーミンの世界観と符合した、というだけの話かもしれない。中島みゆきの歌う世界は、正直よくわからない。
また、このようなことを言っておきながら平然と西野カナや加藤ミリヤも聴くので、単に好むか好まざるか、の議論である可能性もある。