2022.07.30
村上春樹だったか、誰だったか。忘れてしまったが、誰かがこのような主旨のことを言っていたのを覚えている。
「良い作品だけを読むのが良い。悪い作品を呼んでいると、悪いものが出来上がってしまう」
私はこれについて、首肯しかねる。
- 料理の玉石
料理にも、良い料理と悪い料理とがある。ここでは、味覚の観点で「優れている」「劣っている」という分類をしよう。その線引きは、個々の経済状況にお任せする。
優れた料理を選んで食べていれば人間は舌が肥え、料理に対する審美眼の養生につながることであろう。そして何より、優れた料理というものは人間を幸せにさせる。人間の心は美味によって、より豊かになっていくのだ。反面、劣った料理ばかり食べていれば徐々に舌は麻痺してくるし、人間の心は荒み感受性は衰えていく。森が枯れていくようなイメージを想像いただければ理解も容易いと思う。
では、優れた料理だけを食べていればよいのか。そうとも限らない。優れた料理とは比較することによってはじめて「優れている」と認識することができる。A5和牛は年に一回食べるからこそ、「優れている」のである。毎日食べていれば、それは単なる肉塊に変貌を遂げることであろう。
要はバランスである。普段はスーパーで格安で購入した豚肉を炒めて、食べ続ける。そして時々寿司なりステーキなり、優れた料理に舌鼓を打つ。このようにして、我々は優れた料理の有り難みを理解する。
- 作品の玉石
作品についても同じことを言える。最も、作品は基本的に良いものを読むのが好ましい。ただし、こればかりではいけない。
確かに優れた作品は自身の中の森を育む。しかし、優れた作品—–即ち評価の高い作品——ばかりを読んでいると、何が優れていて、何が尊いものであるか、分からなくなってしまう。あくまで「普通の作品」となってしまう。故に、稀に、粗悪な作品を混ぜるのが良い。確かに自身の心には何ら足しにならないが、優れているものがどのような観点で優れているのか、新たな視座によって観察することができる。
また、粗悪な作品がなぜ粗悪であるのか、そのような分析を通して、他山の石とすることも可能である。
『ちいかわ』とおんねことを見比べていて、このことを痛く考えさせられたのであった。