2022.08.03
私は史上初めて肉眼で観測される、ホワイト・ホールでなければならない。
すべてを生み出し、遠ざける。
- 休息について
休息とは何か。諸説あろうが、私は肉体と精神、ともに休め、疲労を拭い去ることであると思う。
では、肉体と精神とを休めるとは何か。肉体は容易い。動かなければ良い。力を抜いて、ゆったりと寛ぐ。これによって、肉体の疲労は拭われることであろう。
問題は精神である。精神を休めるとは、精神の疲労を取ることである。では、精神の疲労とは何か。思うに、精神の疲労とは望まざる何かを認識し続けることにあると考える。生きている限り我々は、労働や醜悪な他者に触れなければならない。そのように、望まざる何かを見続けていれば、心は自ずと疲弊する。これが精神の疲労であると思う。
故に精神の休息とは、望まざる何かを心から取り除くことであるように思われる。労働や他者。醜い浮世。これを心から綺麗に切除して破棄する。平たく言えば、忘れる。これが精神の休息であろう。
- 具体的には
これを踏まえて、休息について考えたい。私は、どのように休息を取るべきか。
働かないことであろうか。違う。職場から離れることそのものには何ら意味がない。自宅で労働のことを考えることも可能である。それは休息と呼ばない。
では、スマートフォンを見続けることであろうか。疑う余地なく違う。そもそもスマートフォンを凝視すると目が疲れる。それに、スマートフォンには精神的に有害なコンテンツも多い。例えばSNS。SNSには、現実で出会うこともないであろう低質な人間が跋扈している。それが否応なく目に入る。そして我々の心は穢される。動画とて、同じである。精神を癒やすものもあれば、そうでないものもある。
私は何をすべきか。簡単なことだ。何もしなければ良い。休息を必要としているのであれば、スマートフォンも触らず、ぼんやりと何かを見つめる。基本的に何も考えない。それが私のすべき休息であろう。そうすれば、肉体も精神も、休息は満たされる。
その過程で本を読むことが出来れば、なお良い。本は浮世から最も遠い存在である。