2022.08.05
今日は誰にも逢うことなく一日を終えられそうな、そんな予感がしている。
- 生き地獄たる浮世
この世はまさしく生き地獄である。
人間は醜悪であり不愉快である。その人間と関わりを持たなければならないことは非情である。
労働は生の引き換えとして求められる。労働は人間の求める活動を制限するどころか阻害すらするという観点で有害なものである。毒と言っても良い。毒である労働を自ら進んで含まなければならないことは滑稽である。
この世は不条理に満ち溢れている。人間という不条理が、おびただしい数の不条理を再生産する。悪意のままに誰かを虐げ、悪意のままに誰かを傷つけ、悪意のままに誰かを殺す。それに理由など無い。考えても意味はない。不条理の刃に侵され続けなければならないことは痛苦である。
我々はやがて死ぬ。死とは不条理の皇帝である。どんな快楽も、どんな恍惚も、どんな幸福も、死によって奪い去られる。そしてその終焉は、いつ来るかも分からない。五秒後には既に事切れているかもしれない。それでも、我々は生きなければならない。いつかすべて無に帰すと分かっていながら。
誰が助けてくれることもない。苦悩に涙しようとも、誰も助けてくれない。例え労働が耐え難く逃げたとして、誰が養ってくれることもない。どのような慈悲深い人間であろうとも、最終的には他者を見捨てる。誰も自己の生存の他に、責任を持つ者など居ない。どれほど友人に恵まれ、華族に恵まれたとしても、我々は孤独でしかない。孤独の中で、我々は生きなければならない。
- 生死の境に
ここで我々は二つ、選択肢を与えられる。地獄を生き抜くか、地獄からの逃避として命を断つか。生死に中庸は無い。生きるか死ぬかが、まさしく問題なのである。
後者を選んだ者は、非常に明快である。ナイフで首を掻っ切れば、激しい痛みとともに命は終わる。呆気なく我々は肉塊と化す。考えるまでもない。
では、前者を選んだ者はどうか。多くの障害が待ち構えていることであろう。しかし、生きることを選択したのであれば、生きなければならない。不条理が居ようとも、労働を強いられようとも、人間を目にしなければならなくとも、生きることを選択したのであれば、生に準じて対処しなければならない。耐え抜くのでも良いし、逆らうのでも良い。生を諦めない範囲で、合理的に闘争を試みなければならない。孤独の中で合理を愛さなければならない。生を前提にした合理を。
- 死を考えるとき
その中庸は有り得ない。故に生きながら死を考えることは許されない。死を考えるのであれば、速やかに死ななければならない。死は極めて身近な存在であり、実行には何ら手順を必要としない。そう、簡単なのだ。高所から飛び降りる。紐を適当な場所に結んで首を吊る。部屋を閉め切り練炭を焚く。手軽に黄泉へと旅立つ方法はいくらでもある。だからこそ、死を考える場合、我々は速やかに死ななければならない。何も特別な行為ではないのだから。
その際、「死は無である」と強く念じなければならない。死は万物の終焉である。死後の世界など存在しない。死によって、我々の意識も快楽も幸福もすべて霧の中へと消える。我々は我々であったという事実すら認識できなくなる。消えてしまったことすら分からず、我々の自己は引き裂かれ果てる。
それを受け入れるのであれば、死は速やかに実現する。しかしそれが恐ろしいのであれば、死を受け入れられる状況ではないので、死ぬことは出来ない。死ぬことが出来ないのであれば、死を考えるべきではない。生死に中庸は無いのだから。
即ち、生か死か。我々には二つの道しか用意されていない。両方を選択することは出来ない。故に、思考もいずれかに限って向けるべきである。生きながらして死を連想するのは非効率的であり、時間の無駄である。実現できないのだから。
不老不死だったらいいのになあ。