まどどブログ

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2022.08.07 ストレスの欠乏と会話について

2022.08.07

 

  • ストレス回避の副作用

 これはあくまで経験則であるが、ストレスを回避し続けていると、脳は自ずと機能を低下させる。具体的には、独創的な思考が困難になる。厚い鉄壁によって宝物殿への通路が妨げられたかのように、脳は輝かしく魅力的な思考を停止させ、ぼんやりと生を浪費する状態へと移行する。

 悲しいことだ。人間はストレスを欲しているらしい。

 

  • ストレス:鉄路修正の反動

 では、宝物殿を取り戻すにはどのようにすれば良いか。ストレスを与えれば良い。ストレスは鉄壁を除去することができる。

 ここで、ストレスとは何か。私はストレスを、本人の期待しているルートから現実の歩が離れてしまったことで、ルートを変更する際に生じる、一種の反動であると考える。

 人間は多かれ少なかれ、望ましい方向性にルートを設定する。例えば本日中に何かを完成させようと思ったとき、大抵の人間であればタスクという形で標を置き、道筋を設定する。これがルートである。

 そして仮に万事が万事、すべて本人の予想されるように進み完了されれば、我々は自身の設定したルートを変更する必要がない。ルートは走破されたのだから。今日中に仕上げなければならないものを今日中に仕上げたところで、満足感の他に得られるものはないであろう。このとき、我々に心理的負荷は発生しない。

 これが今日中に完成を見なかったり、他者に妨害されて目処のつかなくなったりしたとき、我々はルートの変更を迫られる。今日の進捗度合いから明日の割り振りを考え直し、明日の予定を変更する。また、今日の予定が遅れることによる多方面の影響を考慮し、修正を強いられる。

 ルートが紐のように柔軟であれば良いのだが、多くにとってルートは鉄路のように堅牢である。ルートの変更には、適切な道筋を再検討する思考力、各所の影響を吸収する体力など、それ相応の力が必要となる。そして、その力をもってして無理やり捻じ曲げるので、元に戻ろうとする反動も発生する。この反動こそストレスである。と、私は見ている。

 簡潔に言えば、ストレスは自身の予想から離れることによる軋轢である。

 

  • 他者の責で膨張するストレス

 ただし、自身のミスや体調不良など、本人の責に帰するものであれば、ルート変更は容易い。ある程度、どこに標を設置し直し、どのようにルートを再設定すれば良いか、把握が可能である。無論、元のルートから変更することによる反動は発生するものの、恐らく少ない回数で済む。

 一方で他者のミスや妨害など、他者の責に帰するものであれば、ルート変更は難航を極める。この場合、どのようなルート設定が適切か、本人には分からない。例えばある業務が誰かのミスによって根底から覆されてしまったとき、どのようにミスを修正し、最終的にどのような形を設定し、それに至るまでどのような道筋を立てるか、殆ど分からない。先例があればルートの再設定も容易いであろうが、そうでなければすべて試行錯誤に委ねられる。ルートの変更も複数回に渡る。当然反動は蓄積する。故にストレスも膨れ上がる。

 

  • ストレス欠乏の効果的な療法:会話

 本題に立ち返って、ストレスを与えるにはどのようにすれば良いか。予想から離れており、かつ他者の責に帰するものに対面すれば良い。この最たる例として、私は人間の会話を提唱する。

 人間の会話は予測不可能性そのものであると考えている。そもそも、予想に要する時間が殆どない。人間の会話は基本的に零コンマ数秒でのレスポンスを求められる。複雑な予想を挟む暇は無い。そして、人間は大抵、僅かな時間で実現した予想——即ち望むべき返答——から離れた回答を返す。すべてがすべて、お決まりのパターンというわけにはいかない。むしろ予想することが無駄であるようにさえ思えてくる。それにまた対応しなければならない。その繰り返しが会話である。

 つまり人間の会話とはストレスそのものである。願わくは避けたいものの、冒頭のようにストレスの欠乏を感じられる場合は、会話を取り入れることも有効な療法であるように思われる。

 

 なお、作文はストレスに成り得ない。文章というのは、現実に落とし込むまでどうしても文字の入力という時間を要する。故に作文は常に思考を追従する形となる。人間の予想を裏切るには弱い。

 読書であれば、多少のストレスともなるのかもしれないが、即効性には欠けるだろう。