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2022.08.11 死という敗北について

2022.08.11

 

  • 死という美

 死は美しい。死は人を魅了する。とりわけ日本人は心奪われることであろう。雪を見ている。死に瀕してなお足掻くアーティストなど、感涙すら誘う。ああ、このように美しいものが、この世界に存在したのか、と。

 しかし、死は外部から観察するからこそ美しい。死は内部において、美しいはずもない。人間は雪ではない。自身の死は美でも何でもない。むしろ醜悪ですらある。死は敗北であり、敗北は醜いから。

 

  • 死:自身への敗北

 そもそも自己の観点で死は例外なく、敗北である。

 ここで前提として、私は敗北を「自身の願望に背く行為を強いられること」と定義する。説明は省く。その上で、以下に見ていきたい。

 まず自ら望まぬ形で死ぬのであれば、容易く敗北と判断できる。災害。病。殺害。老衰。その他もろもろ。生き永らえる未来を想定しながら死に絶えるのは、自身の願望を損なうという意味で敗北である。

 自殺もこの例に入る。自殺する者の多くは何も、はじめから死を望んでいたわけではないだろう。精神疾患、人間関係の悪化、経済状況の悪化。様々あろうが、何か環境の変化が自身の願望を捻じ曲げ、死へと駆り立ててしまったのだ。誰に唆されることもなく、概念として死を「美しいもの」「最終的に到達すべきもの」と肯定的に位置づけていない限り、希死念慮は他によって植えられた感情に過ぎない。他によって自身の願望を変化させられたのだから、それは敗北である。

 そして、自ら望んで死を求めていた場合、即ち死を概念として愛しているような場合であっても、明らかに敗北である。例えば死を美しいものであり、最終的に自身も死へと辿り着きたい、と考えていたとする。つまり死が自身の願望と一致している。この場合、その願望を抱いた途端に死ななければ、その者は敗北を抱える。死が願望であるのなら、生、即ちいま息をしていて意識のあることは自身の願望と反する行為になる。願望と離れた行為を強いられているのだから、敗北である。仮にいずれ死に、願望を叶えたとしても、その願望は敗北を伴ったものとなる。死を願望と捉えたのにも関わらず、その願望と異なり生かされてしまったのだから。

 例外なく、と申したが、厳密に言えば、死が敗北とならない場合も一つ存在する。先に触れたが、死という願望を抱いた瞬間に敢行する場合。この場合、生という願望から死という願望への転換、そして願望の実現という一連の作業を遅滞なく遂行できるので、願望から離れることは一切無く、結果として敗北を覚えずに死を迎えられる。が、こんな人間が居ると、私には思えない。人間は動物なのであるから、死に躊躇する機会は必ず在る。

 つまり死とは、どのような形であれ、自身の願望と異なる行為を招く。それは敗北である。故に死は敗北である。

 

  • 敗北:憎むべきもの

 そして敗北は例外なく醜い。何故か。敗北とは服従であるから。

 どのような場合でも、敗北した者は勝利した者に必ず服従しなければならない。じゃんけんであろうと、グーを出した者がパーを出した者よりも優越的な権利を得ることなど有り得ない。グーを出した者は、パーを出した者より明らかに劣った選択を強いられる。これが服従である。じゃんけんであろうと、戦争であろうと、敗者は常に勝者への服従を強制される。

 そして、服従は極めて醜い。自由を失うこと、自身の心身が自身のものから離れることほど、醜いものは無い。故に敗北は醜い。

 無論、じゃんけんや戦争であれば、敗北を後に勝利とすることも可能である。しかし死は、たった一度しか訪れない。死の局面で敗北を選択すれば、もう二度と勝利を選ぶことは出来ない。敗北の醜悪はとこしえに固定される。

 故に、死は敗北であり、醜い。

 

  • まとめ:死は見て楽しむもの

 上記より、死は自我の局面で見れば、即ち自身が死を実行すれば、それは極めて高い可能性で敗北であり、醜いものである。

 故に死は内外ともに美しいものではない。死は外部より観察するからこそ、美しく見える。他者の死があまりに儚いからと言って、自らも儚くなるべきではない。