まどどブログ

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2022.08.14 霧と珈琲について

2022.08.14

 

  • 中毒症状と霧

 スマホから離れられない。ゲームに熱中して他のことに手が出せない。あることについて調べたいだけなのに、そこから派生してあらゆることを頭に入れなければ気が済まない。何かに取り憑かれてしまったかのように、何かに囚われる。そして囚われていることにすら気づかない。こういう、一種の中毒症状のような状況に陥ったとき、私は霧の中に在る。

 霧中の湖上のように頭がぼんやりとしていて判然としない。このような状況が、前記の事象を発生させる。このようになって仕舞えば、どのような作業も手がつかなくなる。このような状態は注視すべきものであり、また中止すべきものでもある。頭上の霧は、払われなければならない。

 

  • 霧払いの珈琲

 霧が頭蓋に満ち満ちたとき、珈琲を飲むと良い。

 珈琲を飲むと、まるで高原を貫く涼風のように、頭上の霧は払われる。自らがいま何に囚われていて、いま何をすべきで、そのためにはどのように行動すべきか。これが、霧晴れし湖上の景色が一瞬にして判別されるように、一杯の珈琲から見えてくる。何かから離れたいのに離れられない。こういうときは、珈琲を飲むのが良い。

 何故、珈琲にこのような効果が生まれるのか。二つ考えられる。一つ、珈琲は苦いから。思うに、珈琲の苦味は人間にとって、自らを客観視させるような一種の機能を持っているように思われる。珈琲の苦味を含むことによって、人間は自身を空から眺めるような新たな視点を手に入れる。この視点にとって、自らが何であるかを思い出す。そのような気がしている。

 二つ、私にとって珈琲は非日常であるから。私は珈琲を常用しない。緑茶が主である。珈琲を摂取するのは、とくべつ集中を求められるときに限る。珈琲は腹痛を催すし、眠気も妨げる。故に好まない。しかし、この珈琲を非日常に仕立て上げていることこそが、霧払いの局面で珈琲を有用な手段としていると考えられる。珈琲は集中を催すものである、と私そのものが身体で覚えているのだ。

 

 そういうわけで、今日は珈琲を飲んだ。そろそろ新作に着手しなければ。いい加減、絵のほうも練習するべきである。

 いや、その前に、実務を片付けなければならない。嗚呼、なぜ私はこう怠惰なのだろうか。そもそも自制の能力に乏しいのか?

 

  • 補記:私の文章について

 自己陶酔の極地ではあるが、私は私の文章を美しいと思っている。

 言うまでもなく、全体の89%程度は取るに足らない駄文である。が、11%程度、古今東西の誰も見出すことの出来なかった葉は映っている。まさしく玉葉である。

 これを世人の見ること能わぬまま終わらせるのは、世界にとって大きな損失となってしまう。好ましくない。それに、玉葉を拝むことは私にとっても享楽である。故に、私は散々愚痴を連ねながらも、言の葉を育てている。

 まったく、どうして私はこんな偏屈者になってしまったのか。純情で社会に真っ直ぐな少年Aは何処へやら。