まどどブログ

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2022.08.15 環境と価値観とセックスについて

2022.08.15

 

 今日は発情期の滾りを久々に人間で解消できるか、というところまで来たが、なぜだか実現にまで至らなかった。困ったものだ。

  • 環境と価値観について

 環境は価値観を変化させる。よく耳にする言葉である。

 私はこれを、セックスの観点で非常に強く実感した。今日はセックスを例に、環境と人間の関係性について述べたい。

 

  • ゲイ:セックス集団

 私は同性愛者である。そして同胞を眺めている限り、同性愛者の中でどうもセックスが持て囃されるような風潮にある。タチがどうとかウケがどうとか、やれ何人やっただの、やれどういう体位が癖になるのだの、やれ巨根だの何だの、そういう猥褻極まりない話題を持ち寄って盛り上がっている。そして当然ながら、そこにパートナーの存在は認められない。ゲイにとってセックスとは、アプリで他人を引っ掛けて開催する、少々手の混んでいて少々快い遊戯でしか無い。当然、それに拒否反応を示す者も居ようが、多くの同性愛者はこのような状況に多かれ少なかれ適応しているように見受けられる。

 それ自体を否定するつもりは無い。なにせ、私もそのような状況を当然だと思っていた。人間はふつう、タチやウケなどセックスにおける立場を理解し、セックスに駆られ、セックスを求めてアプリで放浪し、回数に差はあれど、赤の他人とごく自然にセックスしていると思っていた。流石にこれは私を除くこととなるので誇張だが、セックスが極めて日常的で手軽な、赤の他人との遊戯である、とは信じ込んでいた。

 しかし、ふと思ったのだ。ほんとうに普通の人間、即ちマジョリティは、パートナーとたまの交わりを楽しむ他、セックスというものに至ることが無いのではないか、と。

 

  • マジョリティとセックスの関係性

 考えても見てほしい。恐らく多くの人間は、パートナーの他にセックスを経験することが基本、無いはずだ。パートナーの存在しない者は基本的にセックスを経験する機会がない。パートナーに接触し、多くの段階を経て、ようやくセックスを得るのである。そしてそのセックスも、殆どのパートナーにとって、そう回数を重ねるものでもないだろう。毎晩毎晩開催されるものであるとは考えにくい。せいぜい月に一回開催するかしないか、という程度ではないだろうか。

 もちろん、マジョリティにおいても、パートナーを持たずにセックスを試みる手法はある。それは二つ。一つは、アプリ。出会い系アプリを駆使して逢瀬を交わす。しかし、話を聞いている限り、女性はそう安々とセックスをさせてくれるわけでもないらしい。セックスにまで持っていくためには、相当の努力を要すると聞いている。我々ゲイと同じ「アプリ」ではあっても、セックスに対する価値観が我々と女性とでは根本的に異なっているのだ。

 そしてもう一つ、風俗。しかしこれも、セックスの手段として多用されることは考えにくい。様々理由は考えられるが、まずあまりに高価である。一回数千円から数万円も払うのだから、何回も何回も利用できるものではない。

 故に、マジョリティにとって、即ち世の中の普遍的な価値観として、セックスはパートナーと定期的に開催されるものであると考えるのが適当である。赤の他人と気軽に交わることが、マジョリティにとってのセックスではない。そのことを私は完全に忘れていた。

 これがゲイの性だろうか。悲しいことだ。

 

  • 己を俯瞰せよ

 これから得られる教訓は何か。

 自身を俯瞰せよ。自身の環境が世界そのものを体現しているわけではない。価値観も世界のそれと合致しているとは考えにくい。故に、俯瞰が求められる。