まどどブログ

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2022.08.16 自責と他責について

2022.08.16

 

  • 自責:自らの不利益を自らによって改善する行為

 常に自責を意識せよ。これが私の信念である。

 ここでの自責とは、自身に発生する不利益をすべて自身の責と見做し、省みることを意味する。平たく言えば「自分のせい」にするということ。自分がいま不愉快に、不都合に感じている現象について、その原因を自らにあると見做して、反省する。これを常に意識し、実行しなければならない。仮に自身の生活に不都合が生じていたとしても、そこには己の責が必ず眠っている。どこか無意識のうちに浪費している部分があるのかもしれない。交際費が異様に発生しているのかもしれない。あるいは、スキルに対して収入が見合っていないのかもしれない。そして、それらを合理的に改善する。そのようにして多くの項目を省み改善する。これが自責である。

 自責の何が優れているのか。それは得るものがあるという点に限られる。自責によって、己の中で何か不都合の生じている部分を整理し、精査し、改善することが出来る。そして、自らの人生は自らによって修正され、より良い人生へと導かれる。これが自責の効果である。

 

  • 他責:人間らしさ溢れる自慰行為

 他責でこの効果は得られない。他責は排除すべきである。他責は、自責の対極に位置しているもので、即ち自身の不利益を他者の責と見做すことである。つまり「誰かのせい」にするということ。自分の生活がままならないのは政治のせい。家族のせい。上司のせい。こうして誰かのせいにすることは容易いが、それ以上の何も生まない。仮に与党にすべての責任を押し付けたところで、多少優越感を得る他に得られるものは何もないし、自身の生活は何ら改善しない。無意味である。

 故に、他責を実行するメリットは何もない。まあ、自慰行為という観点では、非常に陰湿で人間らしいとは思うが。

 

  • 「自分のせい」と思い込むこと:マゾヒスティックな自慰行為

 しかし自責には一つ、留意すべき点がある。それは、深慮なくして「自分のせい」だと考える場合、自責が単なる自身の抑圧へと転化しかねない、というものである。

 自責は「自分のせい」にすることである。文面通り受け取れば、いじめられているのも自分のせい、ハラスメントを受けているのも自分のせい。何もかも、全部自分のせい。そのように考え、自身を糾弾してしまう可能性も否めない。先輩が常に怒鳴っているのは自分が何も出来ないからだ、というように。そして現実はそうではない。多かれ少なかれ、自身のコントロールから離れている要素も存在する。とにかく性格の悪く、何をしようと他者を支配しなければ気の済まない人間とて存在する。

 それにも関わらず、すべてを自身のせいだと捉えて、ただ自身を虐げ続ける。これはむしろ自責ではない。自責の最終的なゴールは「自身の不利益を自らによって改善すること」であって、自責そのものがゴールではない。この、何も生まない単なる抑圧は、「自分のせい」だと念じ続けていたとしても、自責ではない。マゾヒスティックな自慰行為とでも呼ぶのが相応しい。

 

  • 正しい「自責」のとりくみ方:

 では、正しく「自責」を貫くにはどのようにすべきか。五段階ある。

 第一に、改善すべき状況の現状把握。何が改善されたいのか、問題の認識。

 第二に、自らの求める状況を設定。

 第三に、その状況に向けて、自身の内面において改善できる部分が無いかどうか考察。あれば改善点を模索。

 第四に、自身では対処不能な状況を羅列。その状況の打開策を検討。

 そして第五に、これまでの議論を総合し、自身の求める状況へどのように動くべきか集約。

 

 ルーティーンに費やすべき時間を大幅に超過しているので、具体例は気が向いたら述べたい。ポイントとしては、

・自らによって改善できる部分——自身の心持ちなど——は改善

・自ら改善できない部分——上司の性格など——は、その部分そのものを変更せず、その環境をどう自らの手で変化させるか検討

 というような形である。