2022.08.18
- 人生のテーマ
人生とは何か。人の生である。では、生とは何か。こう言い換えられる。人はなぜ、生きているのか。
死ぬのが怖いので生きている。私は以前、このように考えた。どこかに書きもした。
これについて、見直しが必要である。死が怖いから生きているのではない。死を考えない限り、生きなければならないので生きている。何故か。生死に中庸は無いから。これについては、以下の記事に詳しく述べたので、ご参照いただきたい。
これ以上のことを考えられない。何をどうしようと、死の存在が生を際立たせているとしか思えない。生単体で尊い理由が、一切思い浮かばない。
故に、これが私の生きる理由である。人はなぜ生きているのか。その答えを探すこと。それが私の生きる糧。私の望み。
さて、他の者はどうか? なお、誰かのためだとか、金のためだとか、それは生そのものの意義に成り得ない。自己の中に在るものではないから。これも詳しくどこかに書いたのだが、失してしまった。
- 小人にて
ところで、自惚れた話をしよう。
人はなぜ、生きているのか。生きる意義とは、何か。
小人は大学に入学してからずっと、このことから逃れられなかった。それまでの私にとって、生きる目的は自明であった。目的は与えられていたのだから。高校という箱庭を、小人は愛してしまった。箱庭の中で生きる。箱庭を旅して回る。それこそが、小人に与えられていた使命であった。
そして当然、箱庭は奪われた。時間が箱庭を奪い去ってしまった。そして小人は野に放たれていた。小人は野に、自分の背丈の何杯もある草に覆われ、どこに居るかも分からぬ、そんな野に、生を見出さなければならなかった。
しかし、私は奪われた箱庭を追い求めてしまった。何故だか放り出されてしまったが、きっとこれは偶然の事故であろう。きっと、あの箱庭はまたどこかに、そして遠からず落ちている。だから箱庭を探し当て、またその中に住まえば良い。小人はそう考えていた。そうして野の中を三年もの間、彷徨った。繁き草の根を割って動き回った。愛したものを追って。
当然、箱庭は無かった。そこで小人は諭された。箱庭は時間によって、解体されてしまっていたことを。もうあの愛して已まない模型たちは、どこかでスクラップと化してしまっていることを。時は小人を拒んだ。
また、小人は野に放たれた。放たれた、という事実を、小人は最も理解した。はじめて知った。放たれていた。そしてそのまま、どことも分からぬ野に伏した。二度と起き上がることもなかった。
しかしそれすら、長くは続かなかった。二年の後、不起の小人は虫を見た。虫は小人を咥え、その場から連れ去ってしまった。小人は察した。ああ、きっと喰われてしまうんだろう、と。小人は生物として対抗した。二年間、見せることもなかった暴動を働いた。そしたら虫は怒って、小人の目を噛みちぎって、また野に放り出した。
とくべつ、何かを思うことも無かった。
いまは、真っ暗な世界の中で考えている。
人はなぜ、生きているのか。
生きる意義とは、何か。