まどどブログ

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2022.08.24 「人間」定義の変更について

2022.08.24

 

  • 他者の機嫌に右往左往する私

 私は心優しい人物であるので、他者が何か気を損ねているとき、他者は最善を尽くしており、私に何か過失のあったがために他者の気分を害したと思い込んでいた。しかし、事実はそうではない。合理的に私の過失が認められていない場合でも、意味もなく気を損ねている者は多い。あるいは私に過失の見られる場合も往々にして存在するが、それをすべて気に留めていられるほど私の心に余裕は無い。残念ながら私はどうにも器量の狭い臆病者でもあって、他者の誹りを真っ向から受けてしまい、結果として自らの精神を擦り減らす傾向にある。

 ここで私はこのように考えた。自身の過失を気に留める範囲を限られたものにしよう、と。つまり「人間」として認められる存在の定義をより狭いものとすることとした。

 

  • 「人間」に関する定義の改定

 私にとって「人間」とは、対等に接し、また最大限の配慮を相互に払うべき存在のことを指す。それ以外の人類は「人間」ではなく、あくまで現象に過ぎない。誇張ではない。多くの人類が何を考えているのか、私には一切理解できない。地震や火災と何ら変わらない。それを現象ではなく、意識を持った生命体として認識するというのが、私の用いる「人間」という単語の真意である。

 以前の私は「人間」を人類すべてに適用していたが、今後は「私の価値観醸成に干渉し得る存在」と定義を改めたいと思う。これは、例えば友人や家族のように、私の中に入り込み、互いに自己の領域を披露し合うことで、私の価値観醸成の過程で何らかの作用を引き起こす存在のことを意味している。他愛もない話をして大笑いするような友人は、私の価値観を柔和なものとするので人間である。家族は言うまでもない。家族とは価値観そのものである。

 そして、価値観醸成に干渉し得ない存在は「人間」ではない。例えば乗り合わせたバスの運転手や、小売店の店員。あるいは職場の同僚、上司などもこれに該当する。運転手や店員はただその場の関係に留まっており、特筆すべき点が無ければ私の価値観には干渉できないので、明らかに「人間」と認識できない。同様に、同僚や上司はあくまで仕事、即ち生活資金獲得活動内で発生するイヴェントとしての側面しか持っておらず、生活資金獲得活動の外でその関係性は基本的に作用しないので、私の価値観醸成に多く役立たない。故に同僚なども「人間」とは呼べない。

 

  • 「人間」の定義改定による効果

 このように「人間」という定義を見直すことによって得られる効果は何か。それは、配慮すべき存在とそうでない存在との境界を明らかにしたことで、私の精神的摩耗を低減できることにある。

 この世界は理不尽なもので、私のような優しい人間は真っ先に摩耗する。特に労働の場面では、その傾向がより厳しいものとなる。本来であれば人類すべてに愛の精神を以て望むのが適切であるが、私にその器量はない。そこで愛を以て望むべき対象を制限することで、自らの変質を防ぎつつ、より効果的に愛を注ぐことが出来る。これが「人間」を見直したことによる効果である。

 

 なお、この記事において差別的な感情は見受けられない。あくまで私の中での価値基準として「人間」であるか否か峻別しているのであって、本来の意味で人間であるか否かに関しては議論にない。