2022.08.31
八月も終わる。即ち夏は終わる。秋が文字通り音を立ててやってくる。野分が。
何とも労働の最中にある夏とは、悲劇のようであった。フラットに気温の高い日々が押し寄せてくるだけ。西瓜も花火もラジオ体操も、何も私のものではなかった。ただ、数字のところで夏を示すものが生み出した産物に過ぎない。そういった感じで、私には今が「夏」であると感ぜられなかった。
夏に留まったことではない。春においてもそうだ。労働の中で季節は季節を離れている。気温の差異だけが、季節を示している。単に絶対指標によってフラットな日々が区分けされているだけ。本質的に、日々は何ら変わっていない。全部同じだ。フラットに、一日八時間労働。そんなフラットな日々に、季節も何もない。ただの労働である。
労働に季節など無い。故に、我々に季節など無い。大人の言う「夏」だとか「冬」だとかは、ほんとうの夏でも冬でもない。労働はフラットで、一年通して同じなのだから。学生の感ずる夏こそが、心の底からの夏なのである。
社会人は季節を語ってはならない。社会人に与えられているのは、たった一つの季節である。「労働」という名をした、死ぬまで同じ景色を見る季節だけ。せいぜい、その季節を楽しむが良い。哀れな労働人形は、色を見ぬまま死ぬのが似つかわしい。
まして経営者など、もはや色すら失っていることだろう。資本主義に囚われた者に、色は見えない。色の無い世界だからこそ、彼らは資本を追い求めるのだ。資本が無ければ世界は消えるから。
可哀想に。人類は皆、可哀想である。可哀想なのであるから、死ななければならない。可哀想な者は死ぬことによって救われる。人類は皆、死ななければならない。