まどどブログ

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2022.09.04 悩み事について

2022.09.04

 

  • 天から地へ、地から天へ

 私には明らかに一つ、性質上の問題がある。それは、気分の昇降があまりに激しい、という点である。

 気分の高まっている際には、天にでも昇ったかのような錯覚に襲われる。生命活動におけるあらゆる活力——無論情欲も含む——が底無しに湧き上がる。どれほど睡眠が短くとも問題を感じない。次から次へと素晴らしいアイディアが浮かんできては消えていく。そして何より、感覚が研ぎ澄まされる。例えばこのようにパソコンでキーボードを打っている際にも、そのキーボードの跳ね返り一つ一つが感ぜられる。どのような力加減で自分がキーボードを打っていて、それに対してどのようにキーボードが反発を見せているか。それが一つ一つ、直感的に理解できる。これを受けて指の力を僅かに弱めたとしよう。それすらも分かる。それを受けたキーボードの変化も。触覚に留まらず、味覚、聴覚、その他もろもろの五感。それらがすべて、脳に直接届くような感覚がする。

 そしてこのとき、大抵私は浮いている。さながら天上の心地なので、その言動も落ち着きがない。思考は止められないし、過敏な感覚は何をしようとも私の中に流れ込んでくる。意識しない限り会話も果てしなく続けられる。まるで筋斗雲にでも乗っているかの感覚である。地に足つかず、ただ空を浮かんでいる。ちなみに金遣いも荒くなる。

 ところが気分の沈んでいる際には、これらがすべて裏返る。地に足付くどころか、地から足を立てられない、そのような感覚に陥る。思考はひどく鈍るし、身体という身体が重いし、人に会うのも極めて億劫なものとなるし、五感はまるで機能しない。天上から地に貶され、僭称の罪をすべて背負わされる。何ならずっと眠っている。このような感覚だ。とにかく、何もかも正反対な状態になってしまう。情欲など起こるはずもない。

 言うなれば、私にとって気分の昇るときは生で、気分の沈むときは死である。前者は躍動に溢れていて、動物という名に相応しい。片や後者は静寂そのもので、死に親しい。

 これが私である。先天的に、私はこのような性質を持つ。程度の差こそあれ、幼い頃からずっとこうだった。そのような気がする。

 

 これについて、私はここ数年、ずっと思い悩んできた。これは双極性障害なのではないか、と。この性質によって、私の日常生活は一定の支障を被っている。これは精神疾患ではないだろうか、と。

 事実、この性質は多くの者が持つものと異なっている。気分の昇降でこれほど言動に差の見られることも珍しい。少なくとも多くの者は気の沈んでいるとき眠り続けないし、死を考えない。そのように聞いている。私にとってはその感覚が分からない。このことから、私は通常ではない可能性がある。治療すべきではないか。そう考えてきた。そのように思い悩みつつ、心療内科を探すのすら面倒で、数年間、天地の最中を彷徨い続けた。

 

  • 苦悩は何故発生するか?

 数日前、ふと思ったことがある。これについて思い悩む必要はあるのだろうか、と。

 私の場合、先天的な性質の可能性が高い。その場合、もはや個性として認識するべきであると考える。また、仮に後天的なものであったとしても、その変容は果たして「治療」すべきものか。そもそも何が「通常」であったかも覚えていないのに、それを「治療」して手に入れた人格は、果たして私と呼べるのであろうか。変わってしまったのであれば、それを受け入れ、その中でどのように社会生活を成り立たせるか考えるのが手段としては手っ取り早いのではないだろうか。そのように考えた。

 さらに、常人の持ち得ぬ性質を持っているというのは有益ですら有る。仮にこれが通常から離れたものであるとするならば、それによって何か異質なものを生産できる可能性がある。この世において異質とは価値である。善悪はさておき、何らかの価値を持っている可能性が考えられる。そして価値があれば、貨幣も生まれる。本当にこの性質が異常なものであるならば、金銭を得るに益する可能性がある。それを手放すのはあまりに惜しい。仮に正常に戻れるとしても、戻りたいとは思えない。

 そもそも、通常の域を出ないものである可能性すら考えられる。通常の域のものであるならば、何を悩むこともない。通常なのだから。最初に抱いた懸念が解消されている。

 

 このように考えてから、特に気に留めることもなくなった。性質が消え去ったわけではないが、まあ、仕方がないのだ。これで気兼ねなく生きられないのであれば、それは私ではなく社会の問題であるので、社会を是正する必要が生じる。

 

  • まとめ

 恐らく悩み事の多くは、このようなものである。悩むから悩むのだ。悩まければ、事象が何ら変化を見せなかったとしても悩みは発生しない。