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2022.09.08 「生きているだけで誰かの救い」について

2022.09.08

 

  • 「生きているだけで誰かの救い」か?

 先日は「生きているだけで儲け物」という風説を否定した。同様に、今日では「生きているだけで誰かの救い」であるという風説も否定できる。端的に述べれば、「生きているだけで誰かの救い」であるかどうかは自身の目から観測できないので、それが事実として成立しているか否か、自身の中で断定することは出来ない。

 「生きているだけで誰かの救い」になっていることを客観的に観測し、立証するのは誰か。それは他ならぬ「誰か」、即ち他者ということになる。誰か一人でも「貴方が生きていることは私の救いです」と述べる者がいれば、この仮説は確かに正しい説として採択される。しかし、それは実際に他者にヒアリングを実施しなければ分からない。少なくとも、自身の生存が誰かの救済になっているかどうか、自身の中で決定できるものではない。この仮説を立証するためには、それに値する客観的事実を集積しなければならない。故に、「生きているだけで誰かの救い」と無条件に決定付けるのは不適当であると考えられる。

 以上により、「生きているだけで誰かの救い」とは言えない。

 

  • 生は他者に依存すべきか?

 そもそも、現実に目を向ければ、「生きているだけで誰かの救い」などと言うのは極めて無神経である。生きているだけで誰かの苦しみとなっている者も在る。我々はそれを認めなければならない。それは貴方かもしれないし、私かもしれない。

 生に他者を見出すのは危険である。他者の主観は我々のコントロール下にない。故に、我々の望まざる評価を下される可能性もある。「お前はこの世に不要である」と判断されることすら考えられる。「生きているだけで誰かの救い」と他者の評価に依存するような生存戦略を採っていたとして、このようなとき、人はどうなるだろうか? 少なくとも、死ななければならない。誰かの救いになっていないのだから。

 それでも生きるのであろう。それが生物だから。最初から生きることが決定しているのであれば、他者に依存するのは控えるべきである。自身の中に生の意義を見出すほうが、葛藤という心理的コストを払わずに済むという点で効率的である。

 

 ところで、なぜ二日酔いのとき、我々は嗅覚が極めて鋭敏なものとなり、脳は研ぎ澄まされた嗅覚で嗅ぎ当てた匂いを否定し、胃は匂いをマグマに変えて自らを焼いてしまうのであろうか。酒が好ましいものであるならば、そのような快楽の否定も慎むべきではないか?