まどどブログ

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2022.09.23 人間のエンジンたる憎悪について

2022.09.23

 

  • 効率的な活動を実現するためには?

 人を最も駆り立てるエネルギーは何か?

 糖分であろうか。タンパク質であろうか。塩か、胡椒か、チョコレートか。あるいは涙。あるいは悲しみ。あるいは喜び。あるいは快楽。あるいは慈愛。あるいは恍惚。あるいは睡眠。

 そのどれでも正しく、またそのどれでも無い。最も人を駆り立てるエネルギーとは、憎悪である。何故か。憎悪という感情だけが、人が自己という殻を破り、他者に対して何らかの影響を及ぼそうとするエンジンと成り得るから。

 

  • 「活動」とは何か?

 そもそも活動とは何か。活動とは、どのように定義されるべきか。

 私はこれを「他者に何らかの影響を及ぼそうとする行為」と考える。職場で仕事をする。上司の宴席に付き合う。パートナーの指輪を選ぶ。小説の設定を考える。絵を描く。オタク仲間と映画を何度も見に行く。これらは明らかに、他者に影響を及ぼそうとしているがために発生する行為である。影響を受ける第三者が必ず介在しているのだから。

 特に他者に影響を及ぼすつもりもないのであれば、人生は容易い。家でずっと眠っていれば良い。自宅の近くを誰とも会わずにランニングしていれば良い。美味しいものを独りで食べていれば良い。しかし人間はそうしない。少なくとも、多くの人間は何故かそれを望まない。何かしら活発な——他者との交流を持つような——活動を我々は望む。それは多かれ少なかれ、誰かに影響を与えたい、と考えているからに他ならない。それが我々にとっての「活動」である。

 なお、寂しいから、というのは説明として不足している。寂しさの解消を望むのであれば、軋轢の発生する余地はない。ただお互いに好き勝手言って、お互いに意見の対立したまま、それを解消すること無く別れるだろうから。人間に「喧嘩」が発生するのは、お互いがお互いに自身の主張を受け入れさせることによって、お互いの影響力を行使したいが、その影響力が重複しているので、どちらの影響力を優先させるか争うことによるものである。確かに「寂しい」という感情はあるが、それはあくまで活動の契機に過ぎず、全容ではない。

 

 これを踏まえて、議論を進めたい。

 

  • 憎悪の他のあらゆる行為、感情、栄養素:活動の燃料

 他の感情や栄養素というのは、あくまで自己を満たすものである。確かに喜びや美味たるものなどは、自身を幸せな状態へと運び、満たす。しかし、それらはただ満たすに留まっている。自己を満たすだけで、動かさない。仮に幸せや快楽が自身の中に満ち足りたとしても、それはただ「満ちた」という状態を示すものでしかなく、そこから自身をどこか別の場面へと運ぼう、という原動力には到底成り得ない。

 正確に言えば、快楽などは単に原動力の燃料であって、原動力、即ちエンジンそのものではないのだから、そもそも快楽が自己を動かすことは出来ない。例え自己を快楽や栄養素といった燃料で満たしたところで、エンジンが欠けていれば「私」という機械は絶対に動かない。

 

  • 憎悪:活動のエンジン

 そしてエンジンと成り得るたった一つのものが、憎悪である。そもそも憎悪とは、自身の不利益を他者の責めと見出し、その不利益を発生源たる他者に被せようと企むことによって発生する、極めて攻撃的な感情である。故に、憎悪は自己の中に留まらない。憎悪を抱くことによって、人間は他者に多大なる影響を及ぼそうと考える。

 例えば、親から虐待を受けた子供が居たとする。その子供はただ悲しみ、自身の悲惨な運命を嘆く。その場合、そこに状況の変化は発生しない。悲しみというのは自己の中で満たされる燃料であるので、子供がいくら泣き喚き、悲しみを募らせたところで、自身の中にただ悲しみが満ちていくだけで、その子供は決して動かない。ここで憎悪を抱いたら、子供はどうだろう。憎悪を募らせた子供は、高い可能性で親に対する復讐を試みる。例えば親を殺すかもしれないし、親を歪曲させた原因を—–ごく最近話題になっているようなケースのように——絶とうとするかもしれないし、あるいは、自身の成功を以て親を罵倒しようと考えるかもしれない。直接的にせよ間接的にせよ、憎悪を抱いた子供は、その憎悪の対象たる親を虐げようと企む。これが憎悪である。子供は憎悪を抱くことによって、自己という閉ざされた世界から脱却し、親に危害を加えよう、つまり他者に影響を及ぼそうと志す。

 何が言いたいか。動きたいなら憎悪を抱け。自身を穢した者は犯せ。それが人間にとって、最善の策である。

 

  • 憎悪の他に依る活動は効率的か?

 なお、厳密に言えば、憎悪の他を駆動機関に据えても動くことは出来る。例えば「楽しい」という感情をエンジン賭して小説を書くことも出来る。

 が、それは凡人にとって極めて非効率的である。前述のように、「楽しい」という感情は自己の内部で完結するものであり、いわば燃料である。その燃料自身で動くことはないので、何らかの方法で燃やしてやる必要がある。そしてその方法は、明らかに自己の内部で見出されなければならない。

 いや、平たく言おう。「楽しい」という感情は自分の感情である。自分の感情だけで活動するのは基本的にとても難しい。この場合、他に「楽しい」ことが発見されれば——そして現代においては容易く発見されるものですらある——その活動は速やかに終焉を迎える。それを防ぐには、その活動に何か特別な価値を見出し、そして信じ続けなければならない。群れる動物である人間にとって、客観的な指標の無いものを信じ続けるというのは何より苦しい。「楽しい」という感情のように、自己の中で完結してしまうものを第一目的としてしまうと、むしろ大いなる苦しみすら負うことになる。凡人には耐え難いほどの。

 無論、決して「楽しい」といった感情を排除すべきではないし、食事も睡眠も疎かにすべきではない。それらは燃料として不可欠である。燃料が無ければエンジンは動かない。しかし矢張り、エンジンが一般的に憎悪であることもまた、人間は自覚すべきである。憎悪なき活動は——特殊な耐性を持たない限り——どこかで破綻する。