2022.10.02
- 私の幸せについて
私の幸せとは、何か?
それは金を湯水のように使うことでもなければ、誰かと時を共有することでもなければ、美食に舌鼓を打つことでもなければ、まして、小説を書いたり絵を描いたり詩を詠んだりすることでもない。言うまでもなく、TwitterやYouTubeに時と知能を貢ぐことでもない。
私の幸せ。私が最も幸いであると感ずること。それは、好きな時間に起きて、何にも苛まれることなく好きなことをして、好きな時間に寝る。春の桜に別れを告げ、夏の雷雨に血を捧げ、秋の涼風に耳を傾け、冬の静寂に在り処を見出す。産んでもいいし産まなくとも良い。ただ川の流れのように、在るべきまま在る。これが私の幸せである。いや、この他に私の幸せなど無い。
これを理想と捉えるであろうか。大人にこんなこと無理だって、言いたいのか。これを理想と捉えるのであれば、桃源郷はまさしく我々の中に在る、ということになり、「桃源郷」という言葉は何ら特殊性を持たない、「梅田」や「河原町」のような親しみのある地点ということになる。
何故か。これは皆、必ず経験しているのだから。小学生のとき、皆。眠い目をこすりながら学校に行き、わけも分からず騒いで学校を終え、帰宅し、友人と外に出て遊び呆け、疲れ果て、風呂に入り、夕餉を愉しみ、本や漫画などちょっと自由時間を過ごして眠る。私が求めているのは、あの時であったのだ。これを理想と断ずることは誰にも出来ない。誰の中にも、これに似た記憶は眠っているのだから。
これが私の幸せである。私はただ、あの頃の幸せを取り返したいのだ。あの頃に戻りたいのではない。成長したことによって得た知識や知恵を、あの頃の幸せと邂逅させ、より幸せを膨らませたい。ただこれだけの祈りが、私の幸せである。
- あの頃の夕焼けは実現されるか?
しかしこれを達成することは極めて困難であるとも思う。人間は成体として、多くの義務を課せられている。その最たるものは労働である。資本主義による統治が成熟した現代において、金銭を獲得すること無しに生きるのは難しい。生きるためには、必ず金銭を獲得しなければならない。金銭を獲得するためには、労働に邁進しなければならない。
そして私は何もしなくない。とりわけ、働きたくない。労働はあの頃の景色にないし、私の求める幸せにもない。自らの幸せから離れたものを「クリエイティヴ」するなど、私の祈りには無い。
では、どうすれば労働から離れて、あの頃に見た景色だけをずっと追っていられるか。それをこの数年、ずっと考えてきた。ずっと考えて、何度も思い浮かべて、色々な案を提示して、そしてすべて破棄された。最も有効な手立てであった禁錮刑すら、もうあと数年で廃止される。それにそもそも、無期禁錮の下された判例が無い以上、ずっと働かないのは不可能である。
つまり、もはや私の幸せを叶える手段はこの世に無い。少なくとも、現時点で私の手中に無い。望みは常に絶たれている。金銭を欲せず、愛を欲せず、
では、絶望を湛えた人間はどこに至るだろうか? ご存じの通り、死である。合理的に考えれば、現状で私に生きている意義は無く、生き永らえることはむしろ幸せが遠のいていくことに対する苦悩が募る一方であるので、その状態から解放されるために死ぬのが良い。
- しかし私は此処に居たい
合理的に考えれば、このような解釈が採られる。ところが私は死ぬことが出来ない。私は残念ながら、生物なのだ。私は死にたいと思えない。
もちろん私のことなので、生きるべき意義が無いわけではない。「生きて、もっと多くのものと触れ合って、もっと多くの知見を得たい」といった生きる意義としての建前は存在する。だがこれは生きる「ための」意義でしかない。本能的に察知している。生きる「べき」意義として、意義の後に生が連なっているものではない。単に、私は本能的に生存、自己保存を望んでいて、あくまでその自己保存の根拠を強引に見出したに過ぎない。つまり私にとって、「生きる」という行為は理の伴ったものではない非合理的な行為であると言う他にない。
私はこの矛盾にも苛まれる。合理的には死ぬべき私が、非合理的に生を渇望している。この理性と本能との対立が、私の立つ大地を不安定なものとさせる。そして悩んで悩んで、生と死の最中で狼狽えて、涙に暮れて、また忘れて、そして何も産まずに時を蝕む。
自己嫌悪に陥る。私は現状、死ななければならない。しかし同時に、私は生きなければならない。この矛盾は、どのようにして解消されるというのか?