まどどブログ

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2022.10.10 服の支配について

2022.10.10

 

  • 服は我々を支配するか?

 服はなぜ着られているのか?

 服の機能から考えれば、第一目的としては、体温調整なのであろう。何故か、そして最も恐ろしいことに、体毛を捨て去ってしまった人間が、気候に左右されず体温をある程度、少なくとも生存の確保される特定の値に収まるよう調整するツール。それが服である、と私は考える。単なる布が身体を覆っていたので、服と呼ばれるようになったのである。

 しかしいつからか、人間は服に装飾の機能を与えた。いまや服とは「服飾」と同義である。単に身体を包み、体温を調整するに過ぎなかった布が、いつしか人間を彩り、人間の貧富を表現し、そして階級を提示する機能まで持ってしまった。帝と殿上人と、地下と、下衆の身分の差異は、服によって明白になった。さらに、もはや人間は服なしに生存することが出来なくなった。恐らく早い段階で、例え夏の燃えるような太陽の下でも、人間は服を手放すことがなくなった。人間にとって服とは、着脱可能な外的肉体と化したのである。正確に言えば、人間は服によって、外的に定義付けられるようになった。

 恐らくそれと同時に、人間は服に着られる生物へと進化した。人間の発明した服という「ツール」は、人間の状態を外的に限らず内的にも定義付ける「支配者」の一つへと身分を変えた。

 

  • 服と我々の内面との関係性の検証

 現代の服飾を例に採ろう。我々は眠っているとき、寝間着に身を包む。寝間着を身に纏っていると、なんだかぼんやりとして、身体の力が抜けていくような感覚を覚える。ところが目覚めてスーツに着替えると、その脱力感は速やかに体内から排出され、中にはこれから仕事であるという自覚が注入され、倦怠感、義務感、束縛感、そしてほんの僅かな清涼感が芽生える。そして仕事に一日中打ち込み、家に帰って部屋着に着替える。するとスーツによって宿された感覚はどこかへ吹き飛び、安心感や開放感が体内に残される。その後はまた寝間着に着替えて、脱力感に包まれて眠る。この例を考えれば、服が我々の感覚を——少なくとも大部分で——決定していることが伺える。

 ただし、このような反論も考えられる。これは場面によって宿されたものではないか。仕事を控えているので倦怠感や束縛感を抱いているのであって、スーツによってその感覚が引き起こされているとは言えないではないか、と。これを否定するのは容易い。寝間着のまま、仕事をしてみれば良い。仕事にならない。少なくとも、脱力感の抜けないまま仕事に向き合わなければならない。つまり、場面が我々に特定の感覚を与えているのではなく、服が我々に何らかの心理的影響を及ぼしているのである。これにより、我々の内面は服によって——少なくとも多くの部分で——決定されていると考えられる。

 このようにして、服は我々の「支配者」の一人と成った。無論、我々を外的にも内的にも定義付ける要素は服に限られないが、少なくとも服はそれを定義付ける。

 

  • 内面を変えたいのであれば、服を変えましょう

 本日の記事では何が言いたいか。

 自らの内面を変えたいのであれば、服を変化させるのも手の一つである。どうしても執筆が進まないのであれば、スーツに着替えるのも良いかもしれない。あるいは和装でも良いかもしれない。そのような集中力・発想力などに大きな作用をもたらすものを身に纏うことで、実際に体内にそれらを抱くことが出来るかもしれない。

 無論、このような方法論を追求したところで、自らの根幹を強く抱いていない限り詮無きことであるが、方法も自己の内面に大きな影響をもたらす以上、これを考慮することもまた重要な手続きであるように思われる。

 なお、服と同様に、場所や食事なども自らの内面に大きく作用すると思われる。結局、群れる生物である以上、人間は外的要因に大きく動かされてしまうのだ。