2022.10.11
- 学生を卒業したら、死にましょう
人間はいつ死ぬのが、最も幸せか?
それは個々人の生育環境による。しかし、現代の日本において、それはそう大きく乖離するものでもない。基本的に我々は何者になることも出来ないのであり、生育環境についても、自身の思っているほどそう大きな差異は生まれない。自身の生育環境が特別に劣悪だと考えている者は、例外を除き、自意識過剰である。
そして現代において平均的な生育環境として、衣食住に関して何不自由なく学生時代を過ごし、小遣いやアルバイトで資金を得、ほんのささやかな趣味を楽しむことが出来、また親から激しい束縛を受けることもなく、一定の自由を堪能できる環境を設定する。そのような者は、学生時代の終焉と同時に死ぬのが良い。
学生時代とその後——即ち社会人時代——との決定的な違いは何か。それは、自らが生産者であることを強いられるか否か、という点にある。学生は自由にあるが、社会人は獄中にある。獄中で幸福は発生し得ない。故に死ぬべきである。
一般に、学生は自由が無いとされる。しかし私に言わせれば、前述のような平均的生育環境において、学生は自由である。そもそも自由とは主観的なものであり、自身の知りうる限りの領域において自身の思うことが達成されるのであれば、それは自由である。この意味で、学生はそもそも生きている世界が狭いので、欲望の及ぶ範囲も極めて小さい。故に、親の束縛が強く及ばない限り、学生は自身の知りうる世界の中で気ままに行動することが出来る。この意味で、学生は自由である。
そして学生はその狭い世界の中で、生産者であるか否かも、選ぶことが出来る。絵や文、写真、ないしその他多くの趣味を通して、何かを生産することは許されている。あるいは起業することすら許されている。しかし強制されているわけではない。修学と惰眠に徹することも許されている。ゲームに一年を費やすことも許されている。何もせず、生きていることが許されている。消費者として生き永らえることが、許されている。生産者であるか否かさえ、彼らにとっては自由の一つなのだ。
一方で社会人は明らかに、生産者であることを強制されている。我々は何かを生産しなければ生きていられない。何かを生産しなければ賃金を得られず、賃金を得られなければ現代社会において生きていられない。故に我々は生きる限り、生産者でなければならない。生産者から逃れる手段は基本的に存在しない。眠り続けていればやがて金が尽きる。ゲームで徹夜し続けていればやがて金が尽きる。本に集中し続けていればやがて金が尽きる。そして死ぬ。死ぬことを避けるには、消費者としての生を裏切らなければならない。そして生産者として、能動的に動かなければならない。この意味で我々は社会に生産者であることを強制されているのである。自由は速やかに失われる。自由なき生は、明らかに幸福ではない。
つまり、社会人時代を迎えると同時に、我々は学生時代に保持していた自由を奪われる。自由がある限りは幸せで、自由が奪われれば幸せもまた失われる。故に、学生時代の終焉と同時に死ぬのが、最も幸福な人生を迎えられると言える。
- 社会人は死に損ない
無論、社会人であっても幸福な者はある。それは、自らの意志と言動とが一致している者である。はじめから特定の生産者であることを望み、そして現状、その生産者として生きている者は幸いである。つまり、生きる希望を以て生きている者は幸いである。彼らは死ぬことが無い。
しかし、そのような夢も希望もなく、生きている意義もなく、ただ漫然と生きて社会人になってしまった者は皆、死に損ないである。彼らは轡に愛されている。その生は、不幸である。