まどどブログ

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2022.10.13 人間の性質と顔について

2022.10.13

 

  • 性質と顔の関連性

 私は顔相に明るい者ではない。それを踏まえた上で、あくまで感触として、人間の性質は顔に現れると考えている。経験則であるので、統計学的に正しいとは言い難いのだが、どうにも聡明な者の持つ顔は似通っていて、愚鈍な者も同様であり、かつそれらは明らかに異質な顔をしているように思われる。具体的には、前者はいわゆる教科書的と言うべきか、整った顔立ちであるのに対し、後者は明らかに歪みを見せている。少なくとも、教科書的でない。整った顔を持つ者の多くは聡明である。

 

  • 目は銅鏡であるか?

 ここで、整っていても愚鈍な者は在る。それはどのように見分けるべきか。

 個人的には、目、だと思っている。どのように整っていようとも、聡明な者と愚鈍な者とでは、とりわけ目が異なる。聡明で賢明な者の目は、極めて鋭く、かつ澄んでいる。何を汝が見ていて、何を見たいか、明らかに見定めているというような、力強い目をしている。むしろ世界を確かに映している、というのが適切かもしれない。聡明な者はその目によって、世界を我々に映しているのだから。

 実績の確かな教授の目でも見比べてみるが良い。誰も彼も、多少の差異はあれど、目は同じである。驚くほど澄んでいる。少なくとも、その目は美しい。あたかも銅鏡のように、美しく世界を映している。

 かたや愚鈍な者の目はどうか。ひどく濁っている。どこか焦点が合っておらず、何を見ているのか分からず、ぼんやりとしている。恐らく何も考えておらず、見たいものの他には何も見ていないが故に、思考力が失われてしまい、結果として目の周辺の筋肉もすっかり衰えてしまったのであろう。何を映していない。そもそも、彼らの中に世界は無いのかもしれない。彼らの目は緑青に侵されている。

 

  • 子供は銅鏡である

 そう、厳密に言えば人は皆、銅鏡である。子供の目は皆澄んでいるのだから、誰しも例を外れること無く、はじめは銅鏡を目に宿していたのだ。それを維持できた者は聡明であり、それを腐した者は愚鈍である。この違いに過ぎない。

 そしてこの違いは、ただ思考の継続の有無が引き起こしているものである。子供は皆、すべてに興味を持ち、すべてに疑念を投げかけ、その解消を求めるので、常に思考は動いている。それを成長しても継続することで聡明となり、停止することで愚鈍となる。

 

  • 銅鏡として在り続ける方法

 では、聡明であるにはどのようにすれば良いか。思考を継続するのが良い。あらゆることに疑問を持ち、その解消をすべてに求める。それが、聡明の目を維持する、あるいは手に入れる秘訣である。これを実践することで、我々は銅鏡となり、聡明で在り続ける。しかしこれを忘れれば、銅鏡は速やかに錆びる。