まどどブログ

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2022.10.15 自殺と自死について

2022.10.15

 

 『死ぬのがいいわ』

 

  • 自殺は自殺、「自死」と呼ぶな

 以前も述べたが、自殺は自殺である。決して自死ではない。

 自殺の本質とは「覚悟」である。自らを自らの意思によって殺す、というのが自殺という行為であり、その「自身という人間の殺害」という覚悟を自らに植え付けたからこそ、彼の自殺、自身という人間の殺害は達成されている。つまり、自殺において、当事者の覚悟が最も重要なファクターとなる。なお、精神錯乱などの覚悟が欠如している「自殺」は、ここで自殺として扱わない。

 これを「自死」、即ちおのずから死ぬというように置き換えることは、「殺害」という要素を排除することに繋がる。これは当事者の意思を疎外したものであり、無礼ですらある。何だか分からないけれど、とにかく彼は死にました。そう言っているようなものなのだから。彼の「自らを殺す」という覚悟を意図的に排除しているようなものである。そして人間の意思を無視することは、人間の尊厳を嘲る、最も無礼な行為と言える。

 また、言を加えれば、「自死」という表現を用いることは、他責的ですらある。自殺の引き起こされる要因は、何も当人の内的要素に限るものではない。多かれ少なかれ、周囲の人間が作用している。どのような形態の自殺であれ、周囲が当人の抱える問題を認識し、それに対する援助を惜しまなければ、彼の自殺は妨げられた。それが達成されていない時点で、その自殺の責は当人に限らず、周囲にも帰することとなる。

 「自死」という言葉は、そのプロセスと責任すら、覆い隠してしまう。何だか彼は死にました。これで誰が、当人の、そして周囲の責を自覚し、悔い改めようか。確かに自殺はある種の自然現象であり、地震や台風のように、抗えないものでもある。しかしそれでも、自殺は社会資源の、そしてかけがえのない一個人の喪失である。防ぐことが出来るのであれば防ぐべきであり、仮に発生してしまったならば、当人の責に留まらず、周囲も責任を自覚し、省みることによって、当人を惜しみつつ、自殺から守る手法を後世に伝えなければならない。「自死」という言葉はそれをも掻き消す。これは、社会に対して損失であり、当人に対して冷酷である。

 

  • 「自殺」という呼称は敬意と自省を示す

 自らの意思で自らを殺すという非情に耐えた者に対して、仮にも敬意を持っているのであれば。彼らのその行為に対して、少しでも自責の念を持っているのであれば。彼らのその行為は「自殺」と呼ばなければならない。それが、彼らへの最も有効な表敬であり、そして最大の自省である。

 

 ところで、自殺の定義とは何であろうか。社会学を、心理学を収めていれば、もっと明瞭な議論ができたのかもしれない。