まどどブログ

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2022.10.19 人間は二度死ぬことについて②

2022.10.19

 

 昨日の続きである。

 なお、第二の死は「生命の死」と置き換える。そのほうがわかりやすい。

 

  • 第一の死は人間に特有か?

 昨日の続きである。

 一日考えてみて、第一の死、俗世の死は人間に特有のもの、ではないかもしれない。なぜならば、私は動物と会話したことがないためである。例えば猫は自らの死期を悟ったとき、飼い主の前から立ち去ってしまうという。それは猫の世界における俗世との決別を意味している可能性が考えられるし、そうでない可能性も考えられる。つまり、分からない。分からないことはなんとも、論じようがない。故に、特有であるとは言えない。

 

  • 第一の死と、第二の死との関係性

 さて、第一の死、即ち俗世の死と、第二の死、生命の死との間には、どのような関係性が見られるのか。

 第一の死は恐らく、第二の死があるからこそ発生する。本来の死を予期し、認知しているからこそ、俗世からの隔絶、つまり日常生活との別れを意識するのではないだろうか。

 例えば病死であれば、闘病生活の中で、少しは「死」というイヴェントが脳裏を過ることであろう。死を考えるからこそ、死から逃れようとして、ないし死を恐れて、日常生活から切り離される。いや、むしろ死という状態に向かっている過程で、俗世から切り離されることを余儀なくされる、というのが適切であろうか。一人の人間は、生の状態から死の状態へと突如として移行するのではない。心のどこかで、死を覚悟しなければならないときが必ずある。これが俗世との別れとなる。つまり、死という状態が全人類共通の終焉として存在しているからこそ、その死を認識し、受容しなければならないときがある。これが第一の死を引き起こす。私はそう考える。

 

  • 第一の死の例外

 ところで、人間は例外なく俗世の死を迎えると考える。本当に例外はないのか。

 結論から述べよう。例外は、極めて限られた環境下において実現しうる。しかし、基本的に人は俗世の死を免れない。

 例外として最も考えられるのは、突発的な死に関してである。例えば、凶弾に倒れたものであれば、第二の死、生命の死は俗世、日常生活から切り離されることなく訪れる。あるいは心臓発作や自動車事故など、突発的な死でも同様である。このとき、第一の死は起こり得ないのではないか。

 このような場合、基本的に第一の死は発動する。自らの境遇を認識した場合、人間は少なからず死の足音の響きを感じざるにはいられないはずである。轟音が鳴り響いた。胸に鋭い痛みを感じた。血が吹き出した。周囲が騒然とした。銃で撃たれた。このように認識された場合、人間は恐らく、もはや本能的に自らの生命の危険を感じることと予想される。そして、死が現実的な結末として見えてくることであろう。このような思考は日常生活において発生し得ない。とりわけ、死を現実として捉えることは、日常生活との決別を殆ど意味する。故に、このような思考が成されたとき、人は俗世において死んでいる。

 つまり、突発的な死においても、基本的に人は俗世の死を経る。ただし、例外がないわけでもない。もはや本当に無意識、無感覚で生命の死を迎える場合である。睡眠時の特殊な死がこれによく当てはまるだろう。例えば眠っている間に練炭を炊かれ、苦痛や違和感を覚えることもなく、自覚症状のないまま、文字通り眠るように死ぬ場合。睡眠薬などで深い睡眠に陥った後、他者によってどこかが切られ、本人の自覚のないまま、出血多量で死ぬ場合。このような場合であれば、睡眠という日常生活から断続的に死へと移行するので、俗世において死ぬことのないまま、生命の死を迎える。

 しかし、このようなことは殆ど起こり得ないとも思われる。人間も動物なので、生命の危険、死の足音に対し、本能の警笛が鳴らされるはずである。死を意識せぬまま死んでしまうのは、その本能がよほど制限されたか、あるいはそもそも本能が脆弱であるか、その二つである。そのようなことは殆どの場合、起こり得ない。故に、第一の死を迎えない者は極めて少数になることが考えられる。

 なお、昨日は「例外なく」と記載したので、前言撤回ともなる。已むを得ない。

 

 以上。