2022.10.20
- なんで書けないのよ〜〜
懺悔しよう。私はこの80日、一文字も執筆していない。
厳密に言えば、このブログを平均して毎日一千字程度記述しているので、八万字程度は記載していることとなる。しかしそれは執筆と言えない。私の中での「執筆」とは「何かしらの目的ないし意義を持った創作活動」のことを意味しており、この二条河原の落書のようなものをいくら書き連ねたところでそれは「執筆」と言えない。少なくとも、このブログには何ら目的を付与していない。
当然、書こうとはしていた。ある程度詳細な設定を構築したので、大筋であれば完全に暗記している。登場人物や舞台背景なども、大枠は話すことが出来る。それを基に、パソコンにも向かっている。しかし、まったく筆が進まない。文字通り——文字の話題であるので文字通りと言う他ないのであるが——殆ど進まないのだ。
- 私はなぜ創作者を志すか?
ああ、怒りすら覚える。私には、この他に生きる場所などない可能性が高い。少なくとも、人間から逃げる道を選んだ以上、自身の破綻を防ぐ観点で、自身のみで完結する生活資金獲得活動が最も望ましい。無論、可能であれば人間と交わって生きていたいが、恐らくその前に自らを殺めることであろう。現状の私には、およそ人間として正常な判断が出来ていない。そして、その中で私の特性及び経歴を存分に活かせるのは、トレーダーか、創作者の二点に限られる。
では、どちらを選ぶか。自然、後者である。トレーダーなど、経営者の次に人間として選ぶべきではない職種である。金を求めるために金に使役されるなど、自身の尊厳をゴミ集積場に投げ捨てているに等しい。厳密に言えば、労働に従事している時点で人間の尊厳はひどく穢されているが、しかし、トレーダーは金を主に据えている時点で、道徳的にも、宗教的にも、許されるものではない。トレーダーなどにはなりなくない。故に創作者の他に、生きる術がない。
故に私は創作者として生きていかなければならない。少なくとも、創作者、創造者として精力的な活動が求められている。しかし、現に私はその自身に課した期待に、応えられていない。私は依然、消費者である。それでは何の意味もない。死とより一層強く惹かれ合うに過ぎない。私は書かなければならないのだ。どんなことがあろうとも。そして私にはその才能がある。少なくとも、執念と嫉妬という点において、平均人より明らかに優れている。
話を戻そう。では、なぜ私は書けないのか。「そもそも向いていない」というは除外して、検討したい。
- 肉体的要因は否定される
まず、大きな要因集合として二点考えられる。肉体的な要因と、精神的な要因。
このうち、前者は大枠で否定される。なぜか。書けているときと書けていないときの生活習慣に、大きな差がないから。厳密に言えば、運動不足、会話不足による思考力低下、くらいは考えられるかもしれないが、これは自らによって矯正できるし、それに生活の中では運動、会話共に充足している日もあるので、一切これによって説明されるわけでもない。故に、肉体的な要因は考えにくい。
ただし、これは考慮に値するかもしれない。それは、創作に充てる時間帯。今まで、創作は夜にのみ行っていた。無論労働というゴミカスが日を蝕んでいるが故であるが、考えてみれば、夜というのはもはや一日の終焉であり、疲労の蓄積も著しい。また集中力も日とともに没している。なので、朝の創作。午前中の創作。これをなんとか充実させることは、大切かもしれない。
- 精神的要因そのいち:構想不足
では、精神的な要因が要因集合として有力である。このうち、何点かに分類して検討したい。
検討すべき要因として、おおまかには以下のものが考えられる。設定不足。忌避感。熱情の不足。
このうち、構想不足という点について。これはあり得ない。筆の進む場合にはたとえ構想がめちゃくちゃであろうとも支離滅裂なまま、衝動を抑えられずに書き進める。また、今回は構想を——少なくとも自身の中では——ある程度徹底させた。故に、構想不足が説明要因になるとは考え難い。
- 精神的要因そのに:創作への忌避感
次に、忌避感について。創作に対して、何らかの忌避感を抱いている可能性。これについて考えられるのは、他者から評価されることへの恐怖、自身の作品が優れているものではないかもしれないという不安、このような、他者の視線を前提にしたものである。
確かに、以前であればこのようなことを考えていたこともあった。しかし、創作とは内なる炎であり、外的要因によって妨げられるものではないというのは今の私であれば十分に理解していると考える。いや、外的要因によって阻害されるような意欲は、もはや創作と呼べない可能性もある。少なくとも、私はそのように考えているので、忌避感を抱いていて筆が進まない、ということは考えにくい。もしこの要因を受け入れるならば、それこそ「そもそも向いていない」という帰結を招くが、それで納得できるような状況に私はない。
- 精神的要因そのさん:熱情の不足
熱情の不足について。私の執筆を駆り立てるものが不足している可能性。
恐らく、これが最も可能性としては高い。明らかに私の中で、炎が消えてしまっている。燃料を燃やす炎がなくして、一体どのようにして筆を進めようか。つまり、ここ80日ほど、炎が消えているのだ。
- 熱情の不足そのいち:自身との乖離
では、なぜ熱情が不足しているのか。これについて、また以下のように要因を分解して考える。自身との乖離。疲れてしまったので、この一つしか浮かばない。が、恐らくこれが核心である。
- 私という人間のうちの一側面:異常な自尊心と他者への極端な無関心
ここで、私という人間の特徴を整理しておきたい。仔細なものを除けば、私の特徴は三点に絞られる。一つ、惰眠。一つ、異常な自尊心。一つ、他者への極端な無関心。このうち、後者二つは表裏一体で、かつ本日のテーマに関係する。私は異常な自尊心を持っていて、かつ、他者に恐ろしく興味がない。
厳密に言えば、興味がないわけではない。しかしそれは、私という存在の価値を高めるという点において一貫している。他者に対する嫉妬も憎悪も歓喜も——たった一人の人間に拠るものを除いて——私という存在の価値が高められたか、損なわれたか、そのいずれかによって発生する感情である。その他の——例えば友人の誕生日を祝う、といった——他者のみに依存し、自身との関係の離れている行為は極めて不得手である。興味がないし、その行為を実行する意義が感じられない。その者が特異な立場で、その者との交友を保持することが自身にとって明らかなメリットを導かない限り、他者だけにメリットのあるような行為はしない。いや、出来ないのだ。そもそも興味がないので、そのようなところにまで気が回らない。
- テーマと自身との乖離は何を意味するか?
これは創作にも当てはまる。どういうことか。
端的に言えば、創作においても「じぶんごと」の他に興味がないのだ。若者へのエールであるとか、人類への警鐘であるとか、社会諷刺であるとか、そのような自身から離れたテーマに一切興味を持てない。なぜか? 別に興味がないから。自分のことではないし、私にとって何かメリットをもたらすものでもないから。極論、私と家族だけが幸福を手にすれば良い。家族は幸せになってもらわなければ困る。その他の者は、まあ、頑張ってほしい。私には関係がない。
そして今回書こうとしていたものは、まさしく「人類への警鐘」「宗教への諷刺」をテーマにしていた。どうかしている。だから80日も筆が進まないのだ。少なくとも、一定の説明要因として機能している。
弁解すれば、実のところ、BTSに憧れてしまったのだ。彼らのように、私も誰かを守る者になりたい。そう思ってしまった。その心は大切にすべきだが、私にその役目は務まらない。
- 構想段階で考えるべきこと:私は何が好きか?
では、私が興味を持つものは何であるか。それを考えれば、自ずと執筆の方向性も進むのであろうか。私が好きなのは、動物であり、国家体であり、民族自決であり、人生であり、嗜虐であり、血であり、かつて得た同級生の匂いであり、かつて得た同級生の体温であり、かつて触った同級生の腹であり、かつての同級生であるはずだ。まあ、そのように考えていれば、たぶん、記憶から勝手にアイディアが思い浮かんでくる。そして、その「じぶんごと」を書けば、ある程度は筆も進むことであろう。
これが創作で考えることの一つである。他には、
・なぜ私は書くのか?
・私は誰か?
・5W1H
書き殴っていたら、たった一時間程度で三千五百字である。あな、かしこ。
これはたまに見返して、なにか漏らしていた部分があれば書き加えよう。