まどどブログ

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2022.10.24 一向に「書かない」私について

2022.10.24

 

  • 書けない私は一体何であるか?

 矢張り書けない。私に関わるテーマについて書こうとしたが、どうにも書けない。

 なぜ書けないのか。単に面白いと思えない。あるいは熱情が、執着が明らかに不足している。つまり、先日導いた「自身の他に関心がないので、自身に関わることを書くのが良い」という仮説は棄却されることになる。

 では、なぜ熱情は不足しているのか? 熱情を呼び覚ます、他の要因は果たして存在するのか?

 それとも、もはやこの道を諦めるべきなのか? この道を諦めたとして、他に生きる道はあるのか?

 あるいは、私に生は合わなかったと、早々に死んでしまうべきなのか? 仮に死んでしまうべきなのであれば、この本能的に抱いている生への渇望をどのように説明するか、あるいはどのように抹消するか?

 そもそも、このような思考に陥ること自体、病的なものであるのか? 例えばこれは医学的アプローチによって改善されるものであるのか?

 

  • 現状で生を繋ぐことのできる、たった一つの手法

 考えなければならないこと、解を導かなければならないことが、あまりに多すぎる。あまりに重い。あまりに苦難に溢れている。苦難を見ていて、死を見ない者がいったいどの程度いようか。私もまた、同様に死を見出しつつある。

 ただし、この命題—–生に対する問いかけを速やかに解消する方策だけは既に用意している。

 忘却である。これまでの問いをすべて忘れる。そして、何も考えないで生きていく。かつての私がそうであったように、その時々の快楽のみを見つめ、その時々与えられた課題のみを処理していき、その時々だけの生きがいの中に私を鎮める。これによって、恐らく私の矛盾も生への疑念も、速やかに取り除かれることであると思われる。

 

  • 私は何であるべきか?

 それも良いのかもしれない。背負うのに、生はあまりに重い。生を放棄して逃げて仕舞えば、少なくとも本能は満足する。それもそれで、また幸せであるかもしれない。

 ただしこの場合、恐らく死の間際、即ち動物として避けられない生命の死を迎えるときになって、恐ろしいほどの悔恨と苦悩に苛まれることであろう。その嘆きは、屹度それまで放棄した分のものと同量であろう。

 さて、どうすべきか。今苦しむか、死の間際に苦しむか。どちらが、私にとって利益をもたらすか。私はいったい、何者なのか?