2022.11.02
ケモノになりたい……それかケモノに囲まれて生きたい
白状しよう。私は現実、つまり「こちら側の世界」で生きていたいとはそれほど強く思わない。私は「そちら側の世界」に行ってしまいたい。そして「そちら側の世界」とは、獣人世界である。
例えば『バッドガイズ』や『魔王城でおやすみ』。あるいは『ビースターズ』。マイナーなものも含まれば、枚挙に暇がない。とにかく、動物の愛らしい外形に包まれていながらも十分に発達した理性と思考能力とを持ち、人間と同様に振る舞う者——つまり獣人が多く住まう世界。私が行ってしまいたいのは、そのような世界である。
ああ、言いたいことは分かっている。貴方はきっと、このように仰ることだろう。君は正気を失っている。精神上何か問題を抱えている。人間が人間であること、人間社会の一員であることを望まないなど、有り得ない。速やかに解決し、現実に回帰すべきだ。
確かにそのように考えたこともある。が果てしない自問自答の末、このような解を得た。私は決して正気を失っていない。少なくとも、私は自我を見失っていない。自暴自棄の末にこのような絶望を植え付けられたわけではない、私は私によってこの情熱を抱いているのだ、と。
本日はそれについて述べたい。私は何故「そちら側の世界」を求めるのか。それはどのような要因に依るものか。そしてそれは何故、自暴自棄たり得ないのか。これについて論じ、自身の生に関する価値観を明示しなければ、私は何を書くことも出来ない。
あるいは少しでも、悩める同志諸君の標とならんことを——私の「同志」が一体どの程度居るかは定かではないが。
- ケモノになりたい……それかケモノに囲まれて生きたい
- 「こちら側の世界」と「そちら側の世界」
- 私は何故「そちら側の世界」を求めるか?
- 「こちら側の世界」に対する絶望とは何か?
- まとめ:なぜ人は「そちら側の世界」を求めるか?
- 「そちら側の世界」への祈り:決して救われることはない
- 決して救われることのない同志諸君よ!
「こちら側の世界」と「そちら側の世界」
「こちら側の世界」と「そちら側の世界」との差異を明確にしておきたい。定義を明確にしておかなければ、何を述べることも出来ない。
多くの作品において見られるように、そして私が思うに、この差異とは単に外形に依るところが大きい。基本的に獣人とは「外形が動物の愛らしい形をした人間」とでも言うべきであり、その心理や風習、習性等はそう大きな差異が見られない。厳密に言えば、僅かにオリジナル(例えば猫獣人であれば猫)の習性を一部活用している部分も見受けられるが、それが心理状態にまで深く浸透しているようには見られない。
この例外として『ビースターズ』が考えられる。本能が理性を超越する、というのは人間に見られないものであって、それが社会構造の上であっても厳密に適用されているのは珍しい世界観であると言える*1。ただし『ビースターズ』も人間と内面上異なるのはその部分に限られる。その他の内面部分——例えば友情や愛情、葛藤など——に関しては人間とそう大きな差異は見られない。この意味で、『ビースターズ』世界であろうとも、ベースは人間であると結論付けられる。
つまり、二つの世界の決定的差異は「外形」である。内面については無視できる差異であると判断すべきであろう*2。
私は何故「そちら側の世界」を求めるか?
ところで、そもそも「そちら側の世界」への引力は何によって生起され得るか?
二つ考えられる。第一に、「そちら側の世界」そのものに対して抱いている極めて強い憧れ。この場合、単に「そちら側の世界」の引力として働く。第二に、「こちら側の世界」に関する深い絶望。この場合、「こちら側の世界」の斥力として働き、結果として「そちら側の世界」へ近づくこととなる。
もちろん、どちらでも有り得る。が、恐らく要因として強い力を持つのは二点目だろう。何故か。第一の要因がそのまま「そちら側の世界」への渇望を意味するとは考えにくいから。
第一の要因は、外形こそ両世界の差異であるという前提を考えれば、「愛らしい形状をした者と社会生活を営みたい」という極めて素朴な衝動によって説明可能である。そしてこの衝動は素朴であるからこそ、誰しも多かれ少なかれ抱くものである。「猫の行動に赤ちゃん言葉で吹き替えする」「猫の行動に人間的な意味を見出す」というのはその典型であろう。
しかし多くの人間は「こちら側の世界」を離れてまでそれを得ようとは、微塵も思わない。例えば「猫と会話したい」と思ったからといって「こちら側の世界」から離れたいと思う者は居ない。それこそ恐ろしく病的である。
以上より、第一の要因のみによって「そちら側の世界」への引力が説明できるとは思えない。故に、第二の要因がここでの議論の対象となる。
「こちら側の世界」に対する絶望とは何か?
そして第二の要因、即ち「こちら側の世界」に関する深い絶望についても、二つの観点から分析する必要がある。第一に内的要因、即ち自己及び内面に関する議論。第二に外的要因、即ち他者及び社会に関する議論。
数多の要因が考えられることであろう。第一の議論では、自己嫌悪。孤独感。疎外感。第二の議論では、人間の醜悪さ。社会構造の不平等さ。政治腐敗への怒り。などなど。
ただ、ここで前提を思い返したい。私は「こちら側の世界」と「そちら側の世界」の差異について、外形であると見出した。この場合、「こちら側の世界」への絶望とはそのまま、外形への絶望ということになる。孤独感や疎外感は、我々や周囲が獣人になったとして、必ず解決されるとは言えない。獣人の外形のみが「こちら側の世界」において、どのような努力を払おうとも実現され得ないものである。そしてそれこそ、絶望の心臓である。
さらに、私に限って言えば、外形の他に、「こちら側の世界」に対する内的絶望も外的絶望も抱いていない。事実として私には親しき友が何人も居るし、比較的恵まれた幼少期を過ごしてきたし、そして現在も安定した生活を送っている。自己嫌悪も孤独感も社会への怒りも、覚えないことはないが、現状で生命に危機を抱いていない以上、恐らく些末な問題であろう。それでも私は「こちら側の世界」に虚しさを覚える。友人と何時間も話し通して笑い転げてもなお、別れれば『バッドガイズ』を思い返してしまう。それは何故か? 外形の他に説明され得るとは考え難い。
強いて言えば、私の深い絶望の一つとして、愛すべき人の不在が挙げられる。しかし仮に愛すべき人が居たとして、それによって「そちら側の世界」の引力が弱まるとは考え難い。考えてもみてほしい。例えば隣に愛すべき人——人間である——が眠っていたとして、ミスター・ウルフに覚えた胸騒ぎを掻き消すことが出来るだろうか? 不可能である。愛すべき人は人間であって、どう努力しようともミスター・ウルフには成り得ない。仮に内面がまったく同じであったとしても、人間と獣人とでは何もかも違う。
要は外形への絶望である。内的には、自分が獣人でないこと。外的には、周囲が獣人でないこと。それだけが「こちら側の世界」への絶望であり、「こちら側の世界」の斥力であり、「そちら側の世界」へと私を接近させるものである。
まとめ:なぜ人は「そちら側の世界」を求めるか?
要約すれば、このようになる。
「そちら側の世界」に旅立たんとする願いは、このようなものによって生起される。
第一の要因として、「そちら側の世界」そのものに魅力を抱くこと。「動物の形をした者と社会生活を営みたい」「獣人と一緒に暮らしたい」など、「そちら側の世界」固有の特徴に憧れを抱く。
第二の要因として、「こちらの世界」に深く絶望し、その結果として「そちら側の世界」を求めること。しかし両世界の差異は外形に限られるので、この場合、「こちら側」の外形について絶望する。具体的には、自分が獣人でないこと。あるいは周囲が獣人ではないこと。あるいはその両方。
この両要因が作用し合うことにより、「そちら側の世界」への祈りは発生する。
「そちら側の世界」への祈り:決して救われることはない
私はこの結末を見たとき、あまりに可笑しくて涙してしまったものだ。何故か。
この状態に陥った者を、一体どのように救えようか。自暴自棄の末に「そちら側の世界」を求めているのであれば、自身に何らかの作用を働かせる——例えば精神的療法などを通じ、自身を愛し、人を愛し、この世界を愛するような状態へと運ぶことで、「こちら側の世界」に留まることを決意させる余地がある。覆すことが出来るかもしれないのだ。
しかし、この議論において結論付けられたものは、それとは違う。前述された二つの要因、つまり「そちら側の世界」への憧れと、「こちら側の世界」への絶望——即ち外形に関する絶望とは自己の意志である。そして現実には、どのようにあがいたとして実現され得ない。我々は決して——少なくとも現状で——獣人には成り得ない。
創作や着ぐるみとて同様である。確かに我々はこれによって獣人に最も近づくが、我々自身を変え得るものでは決して無い。創作において我々は観察者に過ぎないし、着ぐるみとて、それは着脱可能な道具に過ぎず、人間は人間のまま変化しない。我々はどこまで行っても人間であり、獣人ではない。
つまり我々は現実に決して叶わないことを願い続ける。誰にも我々を救うことは出来ない——叶わないし、叶えられないのだから。我々は決して救われない*3。
決して救われることのない同志諸君よ!
ここで我々は二つの道を歩むことになる。決して叶わないという事実に正気を失って、「そちら側の世界」へ旅立つために「こちら側の世界」から逃れるか。あるいは血の滲むような努力によって、少しでも「そちら側の世界」を「こちら側の世界」に実現させるか。
つまりは死か、革新か。
しかし死は明らかに無への回帰であり、「そちら側の世界」への旅路では決して無い。だから仮に同志が居るのであれば、聞いてくれ。同志諸君は後者を選ばなければならない。我々の手で、我々の祈りを遂げなければならない。
聞け、同志諸君。我々は明らかに異常者である——人間社会からの逃避を図っているのだから。しかし狂人ではない。自らの意志によって「そちら側の世界」に渡りたいのであれば、その欲求そのものを否定するのは正しい行動であると言えない。その欲求を受け入れ、胸を張って「そちら側の世界」を求めること。それこそ、我々の正しい行動である。いやむしろ、我々にしか出来ない。一般的な人間には決して抱かれない激情であるのだから。
だから死を選んではならない。我々にはまだ、いつの日か「そちら側の世界」を見るかもしれない、二つの目が備わっているのだから。そしてその目を以てして、激情を以てして、我々は「そちら側の世界」を求め、実現しなければならない。
実現すれば良いんだけどね。市場として拡大すればチャンスはあるかしら?
ところで、私は尻尾なら既存技術でも実現可能なのではないだろうか、と考えるに至った。これについては、また後日。
*1:もちろん童話であれば「本能が理性を超越する」局面も見られるのかもしれないが、その原則を基軸として社会構造を描いているところに特異性があると私は考える。
*2: 獣人が徹底して残酷ないし醜悪に描かれることは少ない。どちらかと言えば他者を思いやる、心優しい内面を持った者として描かれることも多い。その意味で人間との差異は内面でも明らかではないか。そのような指摘が考えられる。
しかし言うまでもなく温情に溢れた人間も在る。「内面が優しく描かれている者も在る」という項目では「こちら側の世界」と「そちら側の世界」との差異を説明できない。
皆優しいではないか。嘘を吐かないではないか。そのように考える場合、獣人世界の経験が明らかに足らない。冷徹な悪人として描かれている獣人も在る。皆が善人であるとは限らない。ハイエナに喰われる可能性も、オオカミに銃を向けられる可能性もある。それでもなお——他の者は知らないが——私は「そちら側の世界」を求めている。それは結局、外形に魅せられているからに他ならない。
ちなみに、全獣人が醜悪に描かれた『オッドタクシー』という作品もあるが、あれは結局獣人の物語ではないので除外したい。基本的に、獣人の登場する作品は——童話を含め—–ある程度獣人に対する「愛」が込められている。
*3: どこかで「Furry(ケモナー)には性的マイノリティが通常に比べ多く含まれている」であるとか、「個人的な感触として、Furryは解離の傾向があるように思われ、仮にそうであれば治療できる」であるとか、そのような興味深い言説を目にした。ケモナーに対して学術的興味を抱く者も居るのだから、世の中は幸いにも広い。
それはさておき、前者については確かにそのように感ぜられるところではある。が、後者については首肯しかねる。私を一体どのように「治療」すれば、この胸騒ぎが消え失せるというのだろうか?