2022.11.03
- すきぴ
私はどのような者を愛するか?
昨日おそらく最終的となるであろう解を得たので、ここに残しておきたい。
一、凛々しくも愛らしい者
要はギャップである。愛らしい容貌をしつつ内心では確固たる信念を持っている。しかしときたま、外形に引っ張られて愛らしい側面を見せてしまう。それをまた恥じる。あるいは隠そうとする。そのような、ギャップの連鎖がたまらなく愛おしい。
思うに人間はギャップを持っているからこそ輝く。内面も外面も同様である者は面白みに欠ける。面白みのない者はいずれ飽きる。飽きる者を愛することは出来ない。時間と費用の無駄だから。
- 否定せず、放置もしない者。私の話を聴く者。
生来、自らを否定されるか、ないし放置されるか、そのいずれかが私における会話の殆どを占めていた。故にここで私の話を否定せず、放置せず、真摯に聴く者が求められる。
何も受容される必要はない。ただ、聴いてくれるだけで良い。少なくとも、否定も放置もされることのない、そういう経験を私はしてみたい。
- 外形が動物である者。
そもそも外形が動物でなければ、私は相手を心底愛することが出来ない。そしてそれは実現されない。故に私は妥協して、人間を愛さなければならない。恋愛は妥協であると広く言われているが、私にとってはそもそも人間を相手する時点で、極めて勇気ある譲歩なのだ。
ではどのように譲歩されるか? 相手が何か動物的要素を持っていることが望ましい。言い換えれば、ある動物の名と特徴的な習性を挙げたときに、その習性と普段の言動とが合致するような者が好ましい。犬っぽい、とか、猫っぽい、とか、オオカミっぽい、とか。
以上。