まどどブログ

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2022.11.04 外見の好みとしての獣人について

2022.11.04

 

  • 私の悩み:人に恋しないこと

 私には散々、悩んできたことがある。ある意味、思春期全体を通して、最も大きな受難であったかもしれない。

 それは、人に殆ど恋しないこと、である。

 冗談ではない。私には本当に、誰かに恋をする経験が無い。少なくとも、殆どの人間に対してアプローチしようと思ったことがないし、恋仲になりたいと思ったこともない。外から見れば、非常に冷めている。しかしその実、私はそれほど恋に無頓着な男ではない。むしろ恋については人一倍焦がれていると言っても良い。つまり誰かに恋をして、誰かに尽くしたい。しかし殆ど誰にも恋をしない。どこか一歩引いてしまうのだ。

 そして驚くほど、顔のタイプというものに関して。周囲と話が噛み合わなかった。私には男性にせよ女性にせよ、タイプというものがあまり無かった。特に顔に関して、私は何か恋する共通項を見出しているわけでもなかった。だから、やれ女優のこんな顔がそそるであるとか、やれこういう顔の男が興奮するであるとか、そういう話に私は一切追いつけなかった。そして正直にそう言えば、このように言われた。「こんなときにまで真面目ぶるな」と。決して真面目ぶっているのではない。私には殆ど、ただ単に、顔のタイプというものが無かった。興味を持つ人間がそもそも少ない上に、その人の持つ顔の共通項は驚くほど少なかった。

 さらに言えば、私は誰かと顔を突き合わせるのが、とても苦手だ。例え良い関係であっても、顔が接近するたび、鬱屈とした気分となる。そしてその瞬間自分の中のすべてが終わる。だからいつでも、相手の顔を見ないようにしてきたし、なるべく顔の近づかないように努めた。そのほうが気楽だったし、ときめきも持続した。

 これで私は相当に悩んだ。理想が高すぎるのではないか。幼いのではないか。自己嫌悪の裏返しではないのか。など。人に恋しないのは何故か、恋をするにはどうすれば良いのか、散々悩んだ。そして結論はなかなか出てこなかった。

 極めつけは、獣人への恋である。獣人であればとても容易く、恋に落ちた。白状すれば、強い性的衝動さえ覚えた。しかし現実の動物には一切、性的欲求を抱くことも、恋心を抱くこともない。獣人は良いのに、動物は受け付けない。これも問題をさらに複雑にした。

 しかしここ数日、ようやくこの受難は終焉を迎えた。それこそが解だったのだ。何を意味するか。

 私は、人間の外形が好みではない。単に外見上好ましいのが、獣人だった。外見上の好みが人間ではなく、獣人だった。たったそれだけのことだった。

 

  • 悩みはこうして解決される:人間の見た目が好みじゃない

 思い返してみれば、私はそもそも人間の外形が好みではなかった。もともと、動物の外形を好ましく思っていた。今でも覚えている、中学生の頃、罰ゲームで猫耳と猫の尻尾を身に付けた同級生に、激しく動悸を覚えたことを。

 つまり、最初から私は人間の外形が好きではなかった。そして顔は人間を最も人間たらしめている、人間的な部分である。当然、好ましく思えなかった。特に唇は醜い。唇に接近するたび、吐き気がした。つまり外見上、人間のそれは、人間というだけで受け付けなかった。少なくとも、恋愛対象からは離れた。アイドルや女優、俳優などに一向に魅力を覚えなかったのは、これが原因であろう。

 ここで、獣人が好みであるということになるが、では何故動物そのものには恋心を抱かないのか? それは、「外見の好み」というところにヒントがある。多くの者がそうするように、私は内面上の魅力と外見上の魅力とを分離している。そして内面上の魅力は、最初から人間を対象としている。つまり十分に意思疎通が出来ないとそもそも意味がない。だから動物には絶対に恋心を抱かない。また私は内面が伴っていないと性的欲求も抱かないので、同様にして性的な目で動物を見るということは有り得ない。

 しかし獣人は単に外見が動物のような愛らしいものであるに過ぎない。内面は殆ど人間で、意思疎通も十分可能である。人間同様性格にも様々なものがあり、その中の一部の内面に私は恋をする。

 要は、外見上の問題でしか無いのだ。内面は内面で、例えばギャップのある者であるとか、話を聴いてくれる者であるとか、そのような「タイプ」が存在する。そして外見は外見で、動物の愛らしい姿、という動かざる「タイプ」がある。これが私の恋だ。

 つまり、一般的な人間が美人や美男子に惚れ込むのと、私が獣人に惚れ込むのとは何ら変わりない。ただ外見上の差異に過ぎない。それが愛に発展するか否かは内面の問題であり、それに人間と獣人の差異は無い。

 故に私に対して「動物に性的欲求を抱く者」というレッテルを貼るのは誤りである。潰すぞ。

 

  • 何の解決にも、なっていないけれど

 これですべて説明できる。今までの行動が。同級生を羽交い締めにするとき必ず後ろからであり、前からはむしろ避けていたことも、キスに吐き気を覚えるのも、動物っぽい人しか好きになれないのも、愛する人の顔を一向に覚えられないことも、すべて。

 そう単に、人間に対しては、恋愛と顔とが結びついていないのだ。むしろ他の特徴で覚えている。匂いや声、体温、触感など。冗談ではない。高校の頃、私は匂いで一定の個人を識別していた。むしろ私のほうが動物的なのかもしれない。

 無論、これは何ら解決になっていない。むしろ絶望である。獣人、ないしそれに準ずる者にしか恋し得ないのなら、私はこの先、どうやって愛すべき人を求めれば良いのだろう?

 一般的な方法で求められるものではないのは明らかである。ただでさえ性的マイノリティーで出会いの幅は限られているというのに、これでは明るい展望もクソもない。

 しかし、それはまた別の話。とりあえず、長年の苦悩が解消されただけでも、今は祝っておくべきであろう。既に齢は三十を見据えているが。

 

  • 気持ち悪いでしょうか?

 さて、私は気持ち悪いか。私は問う。ああ、間違いなく気持ち悪い。異常者だ。

 しかしこれでも私は私であって、他の何者でもないし、病的な傾向にあるわけでもない。私は恐らく確固たる者として私である。それが例え社会的に異常であったとしても、私が私であることは受け入れなければならない。

 いやむしろ、これが単に私であったということそのものが、幸いであったのだ。もう悩む必要なんて無いんだから。