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2022.11.23 戦前・戦後の作品と死について

2022.11.23

 

  • 戦前と戦後のちがい:死を見ているか否か

 私は戦前の作品と戦後の作品とについて、明らかに異なるものがあると考える。それは、死を見ているか否か、という点である。

 戦前——特に産業革命以前——死は今よりずっと近い存在であった。そもそも労働環境が劣悪であるし、物流も万全ではなかったし、戦乱も相次いで発生した。そして何より、病に対する力に乏しかった。病は常に自然発生的であり不可抗力のものであると考えられていた。だからこそ、そこには神が宿ったのである。

 しかし戦後、我々は死から遠ざかった。日本や先進国において、労働環境は大いに整備された。物流に関しても、道路網や鉄道網の拡充と流通用機材の発達により、著しく発展した。一般市民が巻き込まれるような戦争は過去のものとなった。さらに、病に対する力も培われた。今や病は、一生を通じていつ訪れるか分からないようなものではない。老いの悪戯か、不幸な事故である。

 このように戦後、我々は死を忘れた。いま生きているものは、老いた者を除いて、誰も死を見ていない。これが戦前と戦後との差であるように、私は思う。

 

  • 生とは死への道である

 そして死を見ないことは、生を見ないことに等しい。生とは死であるから。

 我々は生きながらにして死を宣告されている。誰でも、目的地は定められている。生とは死に至る道に他ならない。道は目的地に向けられたものである。故に生とは死である。

 

  • 戦後は死を忘れ、死への道たる生を忘れた

 その目的地を誰も見ていないのだから、道は当然、曖昧なものとなる。意味もなく山道を歩いているようなものである。我々はなぜこの道を歩んでいるのか、この道とは一体何であるのか、誰も知らない。道について何も知らないのだから、その道について考えを巡らすこともない。

 これが戦後の作品の特徴であるように私は思う。誰も生について考えない。生を当たり前のものだと考えている。あるいは、みな資本主義に犯されているので、生は天が与え給うた無償のものであるから、それに価値は無い、と断じている。そんな作品たちに、一体どうして生きている者たちを見出すことが出来ようか?

 戦前の作品の多くで語られていた「生」を見るのは、戦後において稀である。厳密に言えば、戦中・戦後生まれの作家の作品の中に。

 

  • 戦後の作品に「生」を見出すとき

 ただし、戦後の作品においても「生」を決して見られないわけではない。たった一つ、戦後の作品においても「生」を見られる場合がある。

 作者が死に瀕したとき。はじめて目的地を捉えたとき、彼は道を考える。

 私が伊藤計劃先生の作品をこよなく愛するのは、これが故である。彼は死を見た。だから生を見ている。