まどどブログ

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2022.12.02 スペイン戦の勝利とワールド・カップについて

2022.12.02

 

  • 日本国、スペイン国に堂々勝利す!

 また日本が勝ったらしい。それも、格上のスペインに。決勝トーナメントにも歩を進めたとか。おめでたい!

 これで茶番の延長が確定した。負けてくれたなら今日一日耐えるだけで済んだのに、勝ってしまって、しかも決勝トーナメントにまで進んでしまったら、一体あと何週間、この茶番と向き合わなければならないのだろうか。沈鬱の心地である。

 ああ、怒らないで。あくまで私にとっては茶番というだけだから。別に他の人が熱狂していたところで私には関係ないし、私がワールド・カップを憎悪していようとも貴方がたには一切関係ない。本来そうであるべきだ。無関心を蔑む者は明らかに自他の領域を見失っている。正確に言えば、自分というものが存在しないから他者にそれを見出す。可哀想に。

 それはさておき、今日はなぜ私がサッカーを憎むか、極めて主観的に述べていきたい。

 

 

ワールドカップを憎む理由①:サッカーへの憎悪……?

 私がワールド・カップを憎む理由その一。サッカーへの憎悪。

 要は、過去の汚点が手伝ってサッカーに苦手意識を持つというもの。これは安田氏の記事に詳しい。以下の記事を。

bunshun.jp

 とりわけ私のサッカーに対する憎悪は根深い。私はサッカー好きな連中に青春をめちゃくちゃにされた。奴らのせいで幾千もの観衆の前で醜態を晒すという、男にとって最悪の汚点を俺の清く正しい人生に植え付けられた。何年も前のことであるというのに、今でも夢に見る。そしてそのたび、奴らへの憎悪は私の中で暴れ回る。死ぬまで奴らを赦すことはないだろう——奴らが私に巨額の献金でもしない限り。

 が、私はサッカーをそれほど憎んでいない。サッカーと奴らとは分離されるものだから。人情を理解できない方々が偶然サッカーを愛していただけであり、サッカーが彼らをそうしたとは言えない。実際、サッカー好きで優しい者も多く居た。故にサッカーというジャンルそのものへの憎悪はそう大きいものではなく、同様にワールド・カップを憎む理由にも殆ど成り得ない。

 ワールド・カップへの憎悪は他のところにある。

 

  • ワールドカップを憎む理由②:「私は私ではありません」

 私は大学時代、友人と頻繁にドライブに出かけていた。そしてドライブ中はドライバーの好みの曲をかけるというのが、仲間内での了解であった。暗黙の了解とかではなく、ドライバーの寝落ち防止のため、実際にそういう取り決めになっていた。少なくとも表面上は。

 そして車内で響き渡る曲は基本的にいつも同じであった。あいみょんとか、YOASOBIとか、髭男とか、RADとか、夜なんちゃらとか。人が何回変わろうとも殆ど同じであった。そして私はそういうものに興味が一切無かった。人は興味のないことに向き合い続けるとやがて発狂する。あのときの私も発狂しそうだった。

 流石に発狂するのは社会的に望ましくないので、私は彼らの好みを理解しようとして、彼らに問うた。この曲のどういうところが好きなのか。彼らは答えてくれなかった。はぐらかされた。なんか良い、とか、逆張りはよせ、とか。少なくとも、私の愛する楽曲たちと同じ力量で彼らの好みを語ってくれる人は殆ど居なかった。

 まあそんなものか。それが彼らの好みなんだろう。そう思って、ある日私がドライバーになったとき、私の好みを車内に響かせた。私はちょっとマイナーな洋楽が好みだった。それでも配慮して、日本人のうち千人に一人は知っているだろう楽曲を流したつもりだったのだけれど、ともかく広く知られたものではなかった。

 そしたらある人にこう言われた。

「みんなが知っている曲を流して」

 

 ワールド・カップも同様である。

 これまでサッカーのSも言わなかったような者が、開会と共に熱狂を見せている。

「なぜ貴方はサッカーを見ているのですか?」

 こう問うたら、その人はなんと答えるか?

「そもそもサッカーが好きだから」

「こういうイベントで騒ぎ立てるのが好きだから」

ナショナリストだから」

 そう答える者も在るだろう。それならば良い。しかしこうやって答えられる者は殆ど居ない。大抵はこう答える。

「だっていま、ワールド・カップでしょ?」

逆張りはよせよ」

 そういう者を、私は心底哀れに思う。

 ああ、彼らと同じ。周囲に合わせているだけ。自分を持たない。自分は何を愛するか、そんなことも考えられず、ただ世間で評価されるものだけを取り入れる。それは「私は私ではありません」と宣言するに等しい。自分の愛するものすら見定められない人間が、自分を見ているはずも無い。

 そういう者を見ていると、私はとても不愉快になる。そしてとても悲しい気分になる。

 これが、私がワールド・カップを憎む理由その二である。「私は私でありません」という宣言と、これまで幾度と無く芽生えた疎外感とが湧き出すイベント。

 

  • ワールド・カップを憎む理由③:翼賛放送の跋扈

 私がワールド・カップを憎む理由その三。翼賛放送の跋扈。

 ワールド・カップ中の、特に日本絡みの試合の前後はもう、とにかくどこもかしこもワールド・カップ一色。どこもかしこも同じように試合のハイライトを放映し、選手や監督、そして有識者のインタビューを披露し、日本国代表への賛美で締める。民放は言うまでもなく、NHKですらそうなのだから、翼賛以外の何者でもない。「翼賛放送」以外の言葉で形容するほうが難しい。

 そして私はワールド・カップに一切興味がない。人間は興味がないことに触れ続けるとやがて発狂する。だから私は今発狂しそうだ。テレビから離れれば良いのだが、そうすると世俗の話題がいよいよ追えなくなって、会話が成立しなくなってくる。しかも私は基本的にニュースでしか情報を得ていない。あれほど翼賛放送が跋扈して一般的なニュースの枠を奪われてしまうと、得られる情報も限られてくる。

 このように、翼賛放送は私にとって有害である。故に私はワールド・カップを憎む。

 

  • 人は短命である

 こうして私はワールド・カップを憎んでいる。もちろん、あくまで身勝手に。他の者が熱狂していようと私には一切関係ないし、恐らく一般的にワールド・カップを愛することが望ましいのだろうから、それを糾弾することもない。

 ただ、残念ながら私は興味のないことに触れていられるほど長生きではない。三十かそこらで死んでしまうかもしれないのだから、自分の好きなことにだけ熱中すべきであると考えている。不老不死だったら見ていたかもしれないけどね。

 他の者はそう思わないのだろうか?

 

 ちなみに私自身、矛盾を孕んでいることは分かっている。自他の分別を主張しておきながら、他者に拘っているところ。それが私の醜い矛盾である。結局、爪弾きなのが悲しいだけなのかもしれない。それでも興味のないことに手を出そうとは思えないのが、また私の哀れなところではある。

 あとウクライナの戦争でキャッキャ言っていた私が人のことを言えない、というのも重々承知している。いくら戦争とサッカーとはいえ「周囲が興味を抱くものに熱中していた」という点で私も同罪である。恥ずべきかな。

 

  • 補記:NHKは何故ワールド・カップについて報道するのか?

 ちなみに、これに関して民放の放送傾向は仕方ないと考える。民放は営利企業である。そしてワールド・カップは確かに大衆が求めている話題である。ワールド・カップ絡みを放送し続ければ視聴率をコンスタントに稼げる。であれば、ワールド・カップにすべてを注ぎ込むべきである。経営判断として明らかに正しい。

 しかしNHKは許されない。営利企業ではないのだから、何も視聴率を追う必要は無い。彼らが負うべきは公正かつ広範な情報の提供である。その役割をNHKは現状、放棄している。少なくともワールド・カップという、極論すればスポーツの一大会にニュースの枠の三分の一以上を費やすのは、他のニュースを圧迫しているという点で許されるものではない。国民から平等に放送料を徴収しているのだから、国民の利益となるような報道に徹するべきである。しかも今は明らかに世界が動いている。ワールド・カップは民放に任せて、NHKはそういう視聴率の確保できない話題を追うべきではないのか?

 ああいう巫山戯たことをいつまでも続けるのであれば、NHKはやがて存在意義を失う。そのとき日本の映像メディアは大衆に迎合する他ないので、ポピュリストの支援装置となる。そうなったら悲劇だ。ワールド・カップと戦争とを結びつけるような狂人ではないが、少なくとも、現状のメディアの方針には極めて危ういものがあるように思われる。