2022.12.09
- 時間の可変性
時間とは相対的なものである、とどこかで聞いたことがある。確かにそうだ。時間は徹頭徹尾主観の中でしか働かない。仮に一秒が原子の振動によって性格に定められていたとしても、それを感じる我々の感覚がその一秒の解釈を歪曲させて仕舞えば、結局一秒には厳密な意味も、絶対的な意味も、何も無くなってしまう。そこに残るのはただ「一秒とはこのようなものである」という定義であって、一秒の持つ質は変化し続ける。
さて、私にとっても同様に一秒は相対的で、可変的である。しかも私はその可変性を、体験してしまったのだ。
- 時間の可変性の具体例
私は時計を眺める。たまに確かめるのだ。年を取ったら時の進みは早くなってしまうというが、一秒はあのころの一秒と同じであろうか?
ある日、睡眠時間が六時間であったとき。一秒一秒は想定よりも早く進んでいった。あっという間に秒針は一周を終えてしまった。
次の日、睡眠時間が十二時間であったとき。秒針の周回は明らかに速度を緩めていた。具体的には、昨日、つまり睡眠時間が六時間であるときに比べ、二分の一程度の進みに感じられた。
そういえば。昔から、よく眠った日とそうでない日とで、一日の「長さ」はそう大きく変わっていなかった。無論、前者のほうが絶対的な活動時間は後者よりも短い。例えば十二時間眠った日は活動時間が十二時間であり、六時間眠った日は活動時間が十八時間である。それでも、主観の中で「長さ」は変わらなかった。十二時間眠った日は一秒一秒が遅く思えたし、六時間眠った日はいつの間にか一秒一秒が過ぎていた。
これが時間の可変性であった。
ちなみに、この原因はよく分からない。が、明らかなこととして、時間とは相対的なものである。ほら、まだ十分しか経っていない。