まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2022.12.12 執筆に対する新仮説について

2022.12.12

 

  • 執筆に対する新仮説:我々は「無」に居なければならない

 どういうとき、創作のネタが思いつくのだろうか。

 どういうとき、息の通った創作を実現することが出来るだろうか。

 今まで色々な仮説を立ててきた。怒り。憎しみ。悲嘆。自己の大切にしているものに執着すること。

 そのどれでも無い。そう無いのだ。無である。息の通った創作を実現するのは恐らく、無に達したとき。そのときに限る。

 創作とは自身を透明にすることでもある。つまり創作物の中に「私」が居てしまうと、少なくとも「私」を見いだせてしまうと、創作は途端に破滅する。だから「私」は居てはならない。作者は無の只中に佇んでいなければならない。そしてそういうときのほうが大抵上手くいく。そう感じられて仕方がない。

 これももちろん仮説だ。まだ検証段階にないし、そもそも私が根性無しで、継続して創作に取り組めないだけなのかもしれない。が、私は希望を見出したい。意義など何もない人生に。

 

  • 新仮説とわたし

 執筆というのは不思議なもので、どこかで「私」の存在を認識すると、途端に作品は破裂してしまう。

 少なくとも私の場合はそうであった。私は執筆の際、深く潜っていく。そうやって作品の海に溺れていると、やがて自身が窒息しかけていることに気づく。窒息を認識してしまうと、作品は突如として支離滅裂なものとなる。そんな作品を愛せるはずもない。そのまま執筆活動そのものすら疎む。この繰り返し。ここ数ヶ月もそうで、私は暫く文から離れ、気ままに過ごしていた。

 ピアノを弾いていたときのことである。私はあることに気づいた。指はどうか。リズムはどうか。力加減はどうか。あれこれ考えていると必ず弾き違える。すべて聴覚と触覚に任せて、己は無心で鍵盤を叩いていたほうが、良い音を奏でる確率は高い。

 絵も同様だった。部位の接続はどうか。線の強弱はどうか。骨格は正常か。あれこれ考えているときは大抵失敗する。何も考えず描写したとき、いや出来たときこそ、絵の上達は感じられる。厳密には、考えつつも理性ではなく動作そのものが先行している状態、とでも言うべきであろうか。口より先に手を動かす、ということ。

 では、執筆は?

 そうして先の仮説へと至った。何も考えてはならない。もちろん考えなければならないが、我々はあくまで観客でなければならない。つまりピアノを弾くようでなければならず、絵を描くようでなければならない。

 ただし、窒息を意識しないためには工夫も必要であろう。それもまた無なのだ。窒息を意識することすら無いほど、常に無でなければならない。言い換えれば、自身を追い詰めることも推奨されない。自身を追い詰めることは自身の存在を認めることに繋がる。努めて無であること。困難を伴うが、ピアノやクロッキーのようなものだと考えれば以前よりかは感覚を掴みやすいだろう。

 矢張り色々と触れてみるものであった。

 

 言うまでもなく仮説とは検証されるためにある。検証しなければならない。