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2022.12.16 『すずめの戸締まり』について

2022.12.16

 

 

  • 『すずめの戸締まり』の感想

 『すずめの戸締まり』という映画を観た。様々な点で実験的ではあるが、私はとりわけある一点において、他の作品には見られない新規性を感じた。今日はそれについて述べたい。

 

  • 『すずめの戸締まり』に見られる特殊性

 かの作品の新規性。それは、人物は客体となっており、物語の主体はあくまで「神々」であることだ。

 多くの作品の主体における主体とは、人間である。自然災害やサメや怪盗もの、様々ジャンルはあるものの、人間が基軸であり、人間を中心として事が進む。

 かつての新海誠監督作品もそうであった。例えば『君の名は』や『天気の子』では、主人公とその相手にフォーカスが絞られて描かれていた。隕石や水害もあくまで二人の物語を進展させる装置として用いられており、あくまで副次的なものであった。『天気の子』など、恋に落ちた相手を助けるために東京を沈めてしまうのだから、明らかに災害はおまけである。

 では『すずめの戸締まり』において、人間はどのように描かれているか。主人公たちの恋沙汰は、劇中で色濃く表現されているか。すずめが道中で出会う人間はいっときの手助けに留まらず、その後も密接に物語に関わるか。すずめの叔母に想いを寄せる男性は、その描写があるにも関わらず、何か進展はあったか。

 否。すべて否、だ。あの作品における人間というのはおよそ有機的な役割を見せていない。単に副次的なものであって、どれもこれも、他の人間に置き換えても構わない。

 これを「描写不足」と捉える者も居よう。私も最初はそう思っていた。明らかに人間描写が足らないし、なんとなく流動的で、オチもない。『竜とそばかすの姫』のように、尺が足らなくて説明を省いた。そういう類のものだと思った。

 だが、恐らく違う。あの作品では敢えて人間の描写を省いている。それは何故か。あの作品における中心を際立たせるため。ではあの作品における中心とは何か。それは地震であり、ミミズであり、ダイジンたちである。つまり、神々だ。

 あの作品の登場人物は明らかに、地震、そして神々に振り回されている。すずめが怪奇現象に巻き込まれるのも、そもそもよく分からない要石を抜いてしまったがためだ。いや、そもそもすずめの意思で抜いたかどうかすら定かではない。ダイジンの行動はそれほど奇怪で、不合理である。あるいは地震もそうだろう。日本人であれば、あの不合理を知らない者は居ない。あの作品では、あくまで人間は振り回される側で、神々は善悪問わず振り回す側として描かれている。

 

  • 『すずめの戸締まり』は古の「現代日本」を描いた

 そしてこれはまさしく、古来日本人の有していた価値観である。先の契り。浮世。怨霊。そういった数々の不合理を当然のものとして受け入れ、調伏や祈祷などで改善を願いつつも、排除すること無く共に生きている。これを新海誠は、現代日本に当てはめてしまった。古の世界を、彼は現代に投影してしまったのだ。

 そして我々はそれに共感できる。むしろ、その共感を引きずり出すために、あの世界観を用いたのであろう。何故か。我々に残された不合理こそ、あの映画のテーマなのだから。

 

 ああ、恐ろしい男だ。私は初めて彼に畏敬の念を抱いた。そのようなことを狙って出来るものなのだろうか。彼は天才だ。彼は日本人として、日本でしか描けない物語を紡いでしまった。洋画やインド映画には決して置き換えることの出来ない、かけがえのない世界を持っている。

 素晴らしい。日本映画の新星と評価するべきである。

 

  • 余談:アメリカ版『すずめの戸締まり』

 ところで、アメリカ映画ならきっと、まずミミズの倒し方を考えるだろう。そして米軍が大量に爆撃を食らわせる。それでも倒せず、むしろ反撃に遭う。時間が迫る中、核兵器の使用を検討し、そこでまた一悶着ある。何だかんだ怒鳴り合ううちに、ヒーローが助けに来てくれて、尊い犠牲の代わりに世界を救う。

 ああ、なんだかアメリカ版『すずめの戸締まり』が目に浮かぶようだ。絶対こうなると思う。