まどどブログ

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2022.12.20 自身に酔う者について

2022.12.20

 

 

  • 「自身に酔う」とは何か?

 私は自身に酔っている者が嫌いだ。

 そもそも「自身に酔う」とは何か。自己陶酔であり、自身の言動にうっとりしてしまうことである。言い換えれば、自身の言動や容姿などを特別視して、厳然たる優位性があるように考えることである。

 驚くべきことに、自身に酔っている者というのは少数派ではない。例えば大学生は基本的に自身に酔う者ばかりであるが、何も大学生ばかりが自身に酔っているとは限らない。大学を出て社会を知ったところで、自身が特別であるという幻想から抜け出せない者も在る。むしろそのような者ばかりである。社会というのは酔っ払いによって構成されている。恥ずかしいことに。

 

  • お笑いを語るな

 とりわけ、明らかな偏見として、お笑いを好む者にはこの傾向が強く見られる。お笑いを好む者というのは、その口調の節々に「お笑いに通じている自身は優れて面白い」という執念が感じられる。そう執念だ。彼らは「自身もお笑い芸人のように面白くなければならない」という生霊に囚われている。そして残念ながら、彼らはさほど面白くない。とりわけお笑いを語る者ほどつまらない者は居ない。明らかな欠陥として認めてあげても良いのではないか、と哀れに思うほど、彼らの話はつまらない。

何故つまらないのか。それは結局、お笑いという言って仕舞えば低次元な事象を、さも高尚な学説を仰ぐかのように論じている、その下らなさから発生しているのであろう。お笑いというのは「笑い」であり、笑いとは人間にとって本能的な行動の一つである。そのようなある種低次元な事柄に対して大真面目に考察を加えるのは基本的に下らない。ポプテピピックに大真面目に考察を加えるキツいオタク共と本質的には変わらない。

 例外として、その「考察」が質の高いものであれば良い。例えば大御所が経験と冗談を交えてお笑いを論じるのであれば、それには特有の価値が生まれる。それもまた「笑い」に昇華されるのだから。しかしお笑いを語る者には、大抵その技能すら無い。ただ「笑い」を大真面目に考察する。低次元なものを高尚なものと捉えることほどお門違いなことはない。だからつまらない。

 そのことにすら気づかない。それは何故か。彼らが自分に酔っているから。自分に酔っている者は自身を客観視出来ない。だから自身のつまらなさにも気づけない。世の中の大学生が永遠に、恐らくありとあらゆる恒星がブラックホールとなり、ありとあらゆる銀河がブラックホールの餌となり、宇宙の隅々までブラックホールに支配され、宇宙が永久に眠るときまでずっと、酒の話をしているのと同じように。

 お笑いを語るというのはそういうことだ。あくまで個人的な偏見としてね。

 

 さて、私はなぜ自分に酔っている者が嫌いなのか。それは簡単なことで、会話が成立するとは思えないからだ。

 私は人間のことを蛋白質であると考えている。我々は皆蛋白質なので、首を切断すればスーパーに並ぶ肉と大差なくなるし、火に囲まれれば美味しく調理される。つまり、我々は簡単に死ぬ。簡単に死ぬというのに、どうして自身を特別視できようか。私も貴方も資本家も議員先生も皆、蛋白質であり、首を掻っ切れば死ぬ。誰も死の御前では、特別なことなどない。

 このように考えている者が、自己陶酔に陥っている者とどのようにして会話を成立させようか。彼は自身が蛋白質であるという啓示を受けていない。蛋白質ではないとすら思っているのかもしれない。そのような人間と会話したところで有意義な情報は得られない。だから嫌いなのだ。