まどどブログ

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2022.12.25 クリスマスにみる行事の意義について

2022.12.25

 

  • 年末は突然やってきた

 本日はクリスマスである。長きに渡り染み付いた習慣というのは恐ろしいもので、何か特別なことをするつもりもなかったのに、気づけばクリスマスソングを聴き、ケーキに類するものを購入し、毎年クリスマスにだけ行っている特別な「行事」を実施している。

 ところで今年は、年末が突然訪れたように思えた。ある日ふと周囲を見渡せばクリスマスであり、私は年の瀬に立っていた。今までとは違う感覚だ。今まで、クリスマスや年末に対する意識は徐々に——それこそ日数に比例して——強まっていった。それこそクリスマスや年末は確かに私に向けて一歩一歩ゆっくりと近づいていたし、私もそれを見ていた。しかし今年は違った。今年は気づけば右にクリスマスが居て、後ろを振り返ればもうすぐそこまで年末は来ていた。毎日このようにして何かを記していたのにも関わらず。

 では、それは何故か?

 思うに、今年は完全に「季節感」というものを排除してしまったがためかもしれない。

 

  • 行事なき日々は変わることなき日々

 人間は季節に応じて様々な行事を用意している。初日の出。初詣。花見。花火。盆。紅葉狩り。クリスマス。そして大晦日

 私は今年、それを殆どすべてスキップした。単に興味が無かった。今までもそのような行事への参加は極めて受動的だったので、人と会う機会が減少すれば当然、行事への参加する意義は薄れる。そう思い込んでいた。

 その結果、私は「季節」を失った。無論、桜や落葉を散歩の中で見ることはあったし、気温の変動も感じていた。だが、それは単に日常の風景の一部に過ぎない。正直、桜も落葉も気温の変動も、一日一日では微々たるものでしかない。大きく私の中で時間を何か特徴づけるものではなく、過ぎ去っていく同質の時間の一場面でしかなかった。

 つまり、私は一年の過ぎ去る日々に特殊性を与えることが無かった。どれも同質の一日でしかなかった。それが何十も積み重なったところで、同質は同質のまま。そして今日、クリスマスという「季節」を実感することによって初めて、昨日までの日々とは異質な日々が発生した。

 

  • 行事は日々を色付けるもの

 このことから、私は行事の意義についてこう定義する。行事とは、日々を色付け、流れ去る時間を定量的に観測するためのツールなのだ、と。

 花見や花火など行事を挟むことによって、それまでの日々とこれからの日々を異なるものとして認識する。そうして、自分が今どの程度の時間を過ごし、どの程度の時間を残しているのか、顕にする。そのようにして日々を「季節」という色で分けることによって、一年を徐々に消費することが出来る、と私は考える。

 

 そのようなことであるから、来年は積極的に行事を設けていきたい。流石に一年を同質のまま消費してしまうのは惜しい。あと何年生きられるかも分からないのに。