まどどブログ

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2022.12.27 絵を描けないときについて

2022.12.27

 

  • このブログの意義とは何か?

 極稀にこのブログの読者になってくださる方がいて、それは大変有り難いことなのだが、誠に恐縮ながら、基本的によしなしごとを書き留めることこそがこのブログの意義であり、特定のテーマに絞って述べることはないので、ご了承願いたい。明らかにそれを狙って読者になられたであろう方がこれまでいらっしゃったので、念のため。

 ちなみに、そういう方は大抵そのテーマに私が飽きたら離れていく。例えば、一昔前は労働へのヘイトを書き連ねており、同志も少しだけ集まったのだが、飽きて一切書かなくなったところ離れていった。

 なぜ労働への憎悪に飽きたのか。そりゃ飽きるよ、労働がゴミなことなんて明らかなんだから。いつまでも呪いの言葉を書き連ねていられるほど私も暇ではない。呪ったところで労働そのものは消滅しない。労働は——信じ難いことであり、かつ私には一切共感しかねるが——人間の基本的欲求であり、人間が滅びない限り不死身である。それならば、労働を無視するのが良い。無視すれば殺したも同然、私は労働の外で生きていく。

 

  • なぜ絵を描けないときがあるのか?

 絵について。描きたくとも手の進まないときがある。無性に他のことがしたくなる。それは何故だろうか。今日はそれについて考えたい。

 まず考えられるのは、絵を描くことそのものへの恐怖心。私は絵にトラウマを抱えている。例えば、相手の似顔絵を描いたら非常に悲しそうな顔をされたり、別のときには絵を公開処刑されクラス中に嗤われたり。絵を描くことそのものに若干の恐怖心はある。

 が、これは現状、大きいものではない。私の絵が致命的であったのは単に知識不足と試行錯誤の不足が故であると気づいたのだ。現に、多少勉強したところ、見るに耐えない絵を描いてしまうことは無くなった。恐れるものではない。あったとして、微かな抵抗感に限る。

 次に、面倒であること。絵は多くの工程を必要とする。面倒に感じることが無いわけでもない。

 が、これも要因としては大きいものではない。確かに多くの過程を必要とするものの、一つ一つの負担はその実、そこまで大きいものではない。厳密に言えば、あれこれ気にしなければ良い。以前の私はあれこれ考えすぎていた。技術も何も無いというのに。プロの画家であればまだしも、初心者が様々工夫をこらそうとするのは自意識過剰というものである。

 

  • 他のことをしたいのか?

 つまり上記のように、これまで明らかになっており、かつ改善されつつある要因が主因であるとは考えにくい。では、なぜ?

 分からない。分からないが一つの考え方として、この場合、むしろ「絵を描きたくない」のではなく「他のことがしたい」のかもしれない。例えば今日は絵ではなく、無性に文字を書き連ねたい気にさせられた。特に意味もなく、文字をただ量産したいのである。

 不思議だ。脳の働きが何か関係しているのだろうか。文章は左脳を、絵画は右脳を司るというが。右脳はまだ夢の中なのか、それとも既に死んでいるのか?

 そういえば、今日はなんだか穏やかな心地である。このような場合、大抵私は文章を書いている。因果関係はどうなのだろうか。