2022.12.28
- 『ミセス・ハリス、パリへ行く』の感想
先日、『ミセス・ハリス、パリへ行く』という映画を観た。
今年観た映画の中で最も面白いものであった。今日はかの映画について述べたい。
この作品の魅力の中心を成しているのは、一口に言えば「繊細」である。そしてその繊細さはあまりに多岐に渡っているので、少々分けて説明する。なお、ネタバレを含むので注意されたい。
- 登場人物の一貫したキャラクター設定
登場人物のキャラクターが徹底的に一貫している。無論、キャラクターの一貫性はどの作品にも共通して必須のものであるが、かの作品の場合、あまりに徹底しているので、普通であれば疑問に思ってしまうようなところも難なく観客に受け入れさせる。
例えば、主人公は作中において、あまりに幸運すぎる、あるいは店員と親しくなるのが早すぎる、など「ん?」と思うところも多くあるが、それも主人公のキャラクターが徹底しているがため、どこか納得させられてしまう。
また、上流階級に比較的スムーズに浸透できている、言動も比較的上品である、といった疑問にも「家政婦であり、比較的上流の人物と交流しているから」と説明なく納得できてしまう。そのような徹底したキャラクター描写は、繊細に注意を払っていなければ成すことすら出来ないだろう。
- イギリス人やフランス人の「あるある」を的確に捉えた描写
溢れるイングリッシュユーモアや、フランス人が聞かれたくないことをフランス語で話す場面など、東洋人でもクスッと笑えるステレオタイプが散りばめられている。そのステレオタイプが作品をより際立たせ、あたかもその場に居るかのような臨場感を与える。
- 丁寧な世界観の描写と驚くほど緻密な演技
世界観の描写や演技もどの映画が極めて繊細である。カメラワークなのであろうか、それとも色使いなのであろうか。ともかく、3Dでも4DXでもないのに、作品の世界に入り込んだような錯覚がもたらされる。自身が映画館に居るということを忘れてしまうほどであった。
特に、アバロン夫人は下衆虐めに熱心なのにアバロン娘は明らかにうんざりしているところが、時代の転回を象徴していて興味深いものであった。
また黒人やアジア人の描写に関して、第二次世界大戦直後という時代を考えても無理がないような配分で、何か作品を超越する力——即ちポリコレ——を感じさせない自然さがあった。
- 優美ながらもユーモアが織り交ぜられた不思議な体験
全体的に上品でありながら、ところどころでさりげなく笑いを誘う場面も盛り込まれ、まさしく「イギリス」を体現したような作品であった。
- ディオールという企業のイメージを損ねず物語を進ませる構成力
ディオールを「最高峰の商品を作り続けるエレガントな集団だが、時代の流れに葛藤している」という設定で描かれている他、オーナーから労働者まで、拘りを持ちつつ柔軟な考えも捨てていないという描写が為されている。この描写によって、ディオールの企業イメージを高貴なまま、いや向上させつつ、物語を進めている。
当然と言えば当然なのかもしれないが、少なくとも『ハウス・オブ・グッチ』では難しいものであったようだ。いくら排除された創業家の話であるとはいえ、あれを観てグッチというブランドそのものへのイメージが向上する者は居ないだろう。しかしディオールはその道を選ばなかった。
しかも、あの時代のブームは作中でも言及されていたように「脱特権」である。その中で、特権階級を相手に商売していた高級ブランドというのは自己批判の題材として用いやすい。「過去への反省」という形で過去のブランド姿勢を批判しても良かったのに、安易にそのような作風には流れなかった。そこにも、ディオールに対する最大限のリスペクトが感じられて、素敵に思えた。
- 細かな起伏を繰り返すことによる飽きさせない展開
一見すれば平凡で素直で抜けている夫人の物語である。が、起承転結を平凡に示すのではなく、その日常のささいな起伏を都度丁寧に描写していることで、臨場感が生まれる。それが作品の世界への没入感をより強め、観客を飽きさせない構造となっている。
- 絵としての優美さ
最後に。
ただ単純に、服飾や建造物など映るものすべてがうっとりするほど美しい。醜いものが殆どない。あのアバロン夫人ですら、外形は美しい。恐れ入った。なかなか出来ることではない。