特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと」
2022.12.31
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一年前の私へ
見よ、この愛おしい一年前の私を!
さて、この一年間はどうであったか。言うまでもない。何も成していない。無為に一年を過ごした。少々創作や趣味に勤しんだものの、結果としては何か具体的な成果に繋がっていないのだから、基本的には無価値に等しい。
作品の作成手法を会得したか。怠惰を追い払ったか。感情を作品に込めたか。血をにじませて何かに取り組んだか。否。私はこれまでの人生と何ら変わらない一年を過ごした。怠惰のまま、受動的に、何も成さず、無為に、ただ快楽的に一年を過ごした。
それが間違っているとは思わない。畢竟、一年前の私は何も知らなかった。何も知らないのにお題目だけは立派に諳んじていた。失敗するのは必定のこと。自身の中に何も持たない人間が説教するほど愚かしいことはない。愚かしいのは今も昔も、私であった。
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今年の学びと来年のテーマ①
しかし、一年間で何も得なかったわけではない。私は学びを得た。主体的な行動を学んだし、物事の上達手法を学んだし、孤独を学び、自己を学び、依存を学び、そして対話を学んだ。
その中でもとりわけ大きな学びはこれである。
‘Don’t think. Do it.’
人間の肉体というのは基本的にバランス良く設計されている。それは精神の局面においても同様で、頭だけ大きければ必ず躓く。手足胴体耳尻尾、そのようなものも頭に比して大きくなければならない。考えることはすべてを満たすわけではない。やらなければならない。そういうことだ。
そこで、来年のテーマはこのように設定する。
考えるより行動せよ。
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来年のテーマ②
そしてもう一つ。
自らの中に何かを抱くよう行動せよ。
人間は肉である。すべての行動は最終的に無価値である。では、我々はどのようにして生きるべきか。
それを私は知らない。しかしあくまで仮説として、恐らく自身の中に何かを抱けば、それが生きる糧となり、希望となり、夢となり、そして遺産となる。創作がどうであるとか、名を得るであるとか、そういうことの前にまず、自身の中に何かを抱かなければならない。それを見つけるために、私は行動しなければならない。
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具体的な目標設定
さて、抽象的なテーマ設定を終えたところで、それを軸に具体的な項目を書き出したい。
・「なぜ」の常駐
あらゆる事柄に対して「なぜ」という意識を持ち、必ず解消する。例えば上手に文章を書けない日には「なぜ書けないのか」と問い、それに対する解を得る。他のことでも同様である。「なぜ」が無ければ人間は動かない。
・着実な成果の実現
日々着実に成果を挙げる。今年はインプットに対する積極性を得たが、アウトプットに対しては不十分な点が多く見受けられた。来年はアウトプットをも充実させる。
具体的には、日々成すべきことを設定した上で、着実にそれらを実現しようと試みる。実現できなかった場合は、その原因と対策を講じる。このようにして、日々成果を積み上げる。
ただし、依存対象である映画との兼ね合いは別途考えるものとする。
・新しい依存対象の模索
現状、依存できているものが映画しかない。この状況は映画に飽きたときのことを考えれば、極めて危険である。何か依存できるものを検討したい。
・「大人」になる
私は「大人」という口実で自らを貶めることに心底嫌悪感を抱いていた。「大人になる」というのは普遍的な存在に成り下がることでしかなく、言い換えれば自身の個性を生存のため放棄することに他ならないためである。しかし、生きるためには「大人」にならなければならない部分もある、と悟った。そこで私は来年「大人」になりたい。
ただし、私は他の人間のように内面まで「大人」になるつもりはない。やりたくないこと、望まないこと、そういうことにも当然取り組む。生存のためだ。やむを得ん。しかし内面では個性を捨てない。大切に守り抜く。決して自己との対話を忘れない。そのための映画であり、創作であり、趣味である。
前も同じことを言ったような気もする。ただ、結果として私は外面としても「少年」のまま振る舞っていたのだし、今回は「自己保存のための活動」——即ち労働を経験した上での判断なのだから、再度考え直すのが相応しい。労働消えろよマジで。
・中指を立てて生きる
嘆き悲しんでいても何も始まらない。むしろ、客観的に見ると私の考えに完全なる誤りのあることは少ない。攻撃的に生きているほうが余程効率的で合理的であろう。故に私は来年、中指を立てて生きていきたい。
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SO LONG SUCKERS!
それでは、良いお年を。
来年はクソ共を潰して色を取り戻しますように。