まどどブログ

普通の二十代前半男性が、夢を見るか、破滅するか。そんな人生ドキドキギャンブルの行く末を提供しています。

2023.01.02 動物と人間と欲望と魂について

2023.01.02(残363日)

 

 

  • 欲望は不足の子である……たぶん

 誰の言葉であったか——基本的に欲望というものは不足から来る。そして人間は理性を持つがために、その「不足」が満たされることはない。動物は喰らい、眠り、交尾することで不足は満たされる。その不足とは基本的に本能的なものであり、物質的なものだから。一方、人間は精神的な動物であるために、その精神における不足が充足されることはない。そこで人間は理性においてその欲望を制御するのであり、理性の備わっていないものは欲望をコントロールできない。

 誰の言葉であったか。フロムであったか、それともデュルケームであったか。あるいは私の願望か。

 

  • 私という宗教:動物と人間に差はない

 ところで私はある一つの信念を持っている。動物と人間に差は無い。旧約聖書はじめあらゆる書物において描かれている「人間は動物を超越する」という記述を私は信じない。人間は多少複雑な思考を可能としているが、根本的に働いているものはどの動物においても——虫においてさえ——共通している。それが何かは計り知れないが——少なくとも何かは等しく存在している。私はこれを「魂」と呼んでいる。

 この信条において、理性も本能も分化されない。基本的に「魂」は同一のものであり、我々の奥底に沈んでいる。我々の行動を異にするのはその「魂」を覆う肉体機能である。

 例えば、異様に肥大化した脳によって、我々は複雑な思考を可能としている。その特徴によって、複雑な社会を形成した。地球上、我々以上に複雑かつ高度に文明の発展した社会を形成しているものは居ない。ただ、考えてみれば、これも群れているに過ぎない。オオカミやハイエナも群れている。下等とされている虫の一種、ミツバチもまた複雑に群れている。

 同じだ。人間は他の生物同様、よく群れる。我々はあくまで複雑な思考という肉体的特徴を、群れの発展に活用したに過ぎない。それが「魂」の求めである。ここで理性と本能とを分離して説明すると、よく分からないことになる。人間の「群れ」は理性的で、他の生物の群れは本能的か?

 つまり、私はこう考えているのだ。人間の複雑な思考が、人間の行動原理に優越して存在するのではない。人間も動物も等しく、行動原理には「魂」の求めがある。それをどのように現実に反映させるかは、その種の特徴によって変わってくる。そして、その特徴とは何も「理性」の強弱に限らない。人間には知ることも出来ない、多種多様な特徴を各種活かしているのかもしれない。

 無論、科学的根拠はない。これは信条だ。私に宿る神はこう仰せである。

 

  • 人間の欲望もまた「不足」によってのみ生まれるのではないか?

 ここで私は考えた。それならば、人間における行為というのも畢竟、何かに対する根源的な「飢え」によってもたらされるのであり、初歩的な不足として説明できるのではないか。

 例えば「御国のために」という欲望。それは被支配願望、自己承認欲求、達成感、といったものに分解される。そしてそれらは結局自己という一面における不足が起因している。その不足が何か、は人によるだろうが、例えば愛情の不足でしかないのかもしれない。あるいは近隣住民との関係性という「群れ」の安定感の不足。あらゆる「魂」における不足が、我々の複雑な思考という肉体的特徴を介して解釈されることによって、「御国のために」という行動原理が生み出される。

 

  • なぜ私は「存在意義」を得たのか?

 ここで私は考えたい。

 私は今日、思ったことがある。私は人間優位の価値観を破壊したい。我々は動物と何ら変わらない。動物も人間も皆、同様に肉であり、同様に利害で動き、同様に「魂」を持っている。この信条を確固たるものにしたい。社会に蔓延する人間の優位性をめちゃくちゃにしてしまいたい。理性も本能も何もない「魂」の存在を顕にしたい。哲学を嘲笑い、宗教を覆し、人類をすべて肉と貶めたい。これが私の生まれた「意義」であるとすら思ってしまうほど、鮮烈な天啓であった。

 どうしてこんな自己陶酔に満ちたことを思ってしまうのだろう。私には何が足りていないのか。愛か。友情か。信頼か。期待か。快楽か。自分でも分からない。

 分からないまま、今日を終えていく。