まどどブログ

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2023.01.05(残360日) 私の趣味と本能について

2023.01.05(残360日)

 

 

  • 私の趣味の一つについて

 人を怒らせるというのはまったく、愉快でたまらない。

 何が相手を最も不愉快にさせるか。相手は何を最も嫌うか。そういうことを考え、探り、そして言ってみる。それで相手が明らかに顔を顰めたり、怒りを顕にしたりするときほど、心地良いことはない。まるで探偵が未解決事件の真犯人を突き止めたかのような快楽が私を包み込んでくれる。相手が涙したときなど、もう絶頂を抑えるのが苦しいほどで、このまま恍惚を受容してしまいたいと思ってしまう。

 このように、私は人を不快にさせるのが大好きだ。中学生の頃から薄々勘付いており、高校生の頃には若干愉しみ方を覚えつつも、大学生の頃には封印していたこの遊戯を、私は最近復活させつつある。人間とは概して、尊重に値する動物ではない。可愛くないからね。

 

  • 私の趣味は動物として正しい

 さて、これは健全な遊びであろうか。

 もちろん社会的には健全と言えない。このような人間が社会に跋扈していれば、隠されている悪意は暴かれ、世界は現状の疑心暗鬼に満ちた状態から無秩序の闘争状態へと変わってしまうことであろう。それもそれで単純明快、結構なことだと私は思うのだが、恐らく多くの人間はそう思わない。

 では、動物としてはどうか。実際、動物としては明らかに健全である。私の行為は本能に極めて忠実である上、私はそれを自覚している。

 動物は多かれ少なかれ、他の個体よりも優位な地位を得るよう努力する。それは動物の本能であり、我々もその本能から逃れられるわけではない。我々もまた、他者より優れたものであろうと知ってか知らずか望み、動く。いじめやハラスメントはその最たる例である。

 私のこの趣味もその一環に過ぎない。怒りや悲しみというのは弱さであり、相手に劣後することを表す。それを私に見せるということは、私がその場面において明らかに優位であることを示す。その優位を求めることは極めて本能的な行為であり、動物として適当である。快楽を覚えることに関しては判断しかねるが、繁殖行為に快楽の付与されていることを鑑みれば、これも優位の種を残すという観点で繁殖の親戚のようなものなので、健全として位置づけることが出来よう。

 さらに、私はこのことを自覚している。私は私の本能を見ている。それが先述のいじめっ子や威張り散らす上司、政治家、資本家との違いである。彼らは本能を見ていない。本能を見ていない上で本能的に行動することほど愚かしい行為はない。確かに動物的であるが、彼らは動物ほど愛おしくも無いし、純粋でも無い。合理性を忘れた人間は穢れそのものであり、明らかに動物に劣るし、また肥やしとしての他には地球上で必要とされていない。ゴミだ。ゴミと定義するのが相応しい。

 残念ながら私はゴミではない。自らの穢れをこの目で見ている。その上で愉しんでいるのだ。

 

  • 私の名誉のために

 念のため注意しておくが、私は誰彼かまわずこの遊びを仕掛けているわけではない。仕掛けるべき相手に仕掛けている。私も人間だし、そもそも私は善性の子である。心の痛みは人並み以上に覚える。そうでなければ動物に愛着を示さない。

 その痛みを殆ど感じない、ゴミ共に仕掛けるからこそ、この遊戯はハッピーなのだ。具体的に私にとっての「ゴミ」とは、合理性の乏しいまま私に損害を与えた人間のことを指す。人間である以上、その行動には合理が厳しく問われることとなる。